つかのま気まずくなった空気を誤魔化すように少し談笑して、友人は辞していった。
友人を乗せ、都へ去って行く馬車をジュネは見送る。ミヒャエルも隣に立って同じく見送っていた。
馬車の姿が遠ざかり、見えなくなるとジュネの胸に安堵が広がった。
ミヒャエルと二人で館の中に戻ると、ふいに聞かれた。
「寂しい?」
ジュネは目を瞠った。何を意味する言葉かすぐにはわからなかった。
黄昏と夜のあわいを思わせる双眸がジュネをうかがっている。
「君はもともと、都のご令嬢だ。ここはいいところだが、その、華に欠けるだろう。ものもあまり多くない。ご家族も都にいることだし……戻りたいと思うことはないかな」
ジュネは目を見開いた。少し慌てて、頭を振る。
「そんな……思ってもみなかったわ」
「でも君は、僕のために無理をしてここに留まっているのではないか。僕は素性の知れぬ人間で、ここ以外に拠り所となる地がない」
夫の声はいつも通り穏やかで、頭によく染みてくる。暗に詰ろうとするでも、疑っているのでもない。
――ミヒャエルは大きな誤解をしている。
ジュネは声に力をこめた。
「私はあなたと一緒に暮らすことが幸せなの。ここは平和だし、他に望むことなんて何もないわ」
本心からの言葉だった。
ここには、いかなる競争も陰謀も虚栄もない。
実際、かつてあれほど婚約者であることを誇りに思っていたダヴィドのことを、いまは思い出さなくなっている。
ミヒャエルという太陽を知ったいま、ダヴィドはもはや足元の影のようなものだった。
「それに、家族はもうここにいるわ」
ジュネは少しはにかみながら微笑んだ。
さして仲が良くもなく、悪くもなかった両親や乳母たちと、離れて暮らすことに苦痛は感じない。
むしろ悪評をたてられた娘が離れているほうが、家族も内心では安心しているだろう。
いまのジュネにとっては、ミヒャエルがすべてだった。
ミヒャエルは嬉しそうに笑った。
「それを聞いて安心したよ。君は本当に……僕の幸運そのものだ」
まっすぐな言葉に、ジュネの胸は弾んだ。ミヒャエルの喜びが伝わってきて、体中がくすぐったい。
幸せだった。
夫(ミヒャエル)を愛している。
――そして愛されているとわかる。
それはなんと幸せな、震えがくるような甘い感覚だろう。
この生活が、ずっと続けばいい。
町の外れにある丘で、オーヴの花が満開だという。
それを見に行こうとミヒャエルは言って、ジュネの手を引いて館を出た。
自分よりもたくましく大きな手に包まれながら、ジュネは丘をのぼった。
オーヴの林はすぐに見えてきた。林は、巨大な白い冠を被ったかのような姿をしていた。晴れた薄青の空の下で、無数の小さな白い花が咲いているのだ。
薄青の空と白い花々の冠とが、そこだけ別世界のように見せた。
手を繋いだまま、ジュネはミヒャエルとともにその木々の中をゆっくりと歩いた。
ほのかに甘い芳香が鼻腔をくすぐり、おとぎ話に出てくる異界にでも迷い込んだような気分になる。
満開の白い花を見上げ、ミヒャエルは温かな微笑を浮かべていた。
その完璧な横顔に、ジュネは魅入ってしまう。
ミヒャエルと結婚して昼夜をともにするようになってから数ヶ月――いまだに、慣れることはない。
立ち姿ひとつでさえ、そのまま彫像になってしまえるのではないかと思えるほど目を惹きつける。
純潔をあらわすともいえるオーヴの白い花は、ミヒャエルの清冽さによく似合って見える。
(……劇のようだわ)
友人の言葉の通りだった。現実のものとは思えないほどにできすぎている。
ふいに、ジュネの胸に翳りがさした。
――ありふれた悲恋劇や恋愛小説のようなものだったらどれほどよかっただろう。
たとえば、ミヒャエルの正体が悲劇の貴公子などであったら。
政敵に追われ、従者ともはぐれ、逃亡の果てにこの辺境の町に――あの泉にたどりつき、気を失った。そのときに頭を打つなどして記憶を失った。
そんな筋書きであったなら。
(……それなら、よかったのに)
小説なら、きっとそのまま恋に落ちて、失われた記憶を取り戻して身分違いの恋に苦しむことだろう。あるいは貴公子を狙っていた勢力が現れて陰謀が繰り広げられるかもしれない。
けれど、自分たちはそんな夢物語にはならない。
「ジュネ」
ミヒャエルの声に、ジュネは顔を上げた。ふわりと、耳の横に優しく差し込まれるものがあった。
ほのかな甘い香りが漂う。
花のついたオーヴの小枝。
ミヒャエルは微笑している。紫の瞳が、ジュネだけを見つめている。
その眼差しの優しさに、純粋さに、ジュネは泣きそうになる。
ミヒャエルを想う気持ちが喉までせりあがって、溺れて息ができなくなる。
想えば想うほど、それはおそれと不安とでいりまじって叫び出したくなる。
言葉にならないもののかわりに、ジュネは夫に抱きついた。
「僕の妻は感激屋だな」
ミヒャエルは快い声で笑って、大きな腕ですぐにジュネを包み込む。
広い胸の中に、ジュネは顔を埋める。目を閉じる。このまま時が止まってしまえばいい。
小説や甘い夢と同じものになってしまえばいい。
この胸にわだかまる、一滴の冷たく暗いものを消し去ってしまいたい。
忘れたい――ミヒャエルの正体を。
彼が何者であるかなど、忘れてしまえたらいい。
土中深くに埋めたあれのことも。