ジュネが泉に近づかなくなったのは、そこが神聖だからではない。
畏れているのではない。
怖れている。
――忌避しているのだ。
◆
「本当に羨ましいわ。あんなにいい男をどうやって捕まえたの?」
心からの羨望を表すように、数少ない友人は感嘆のため息をついた。
ジュネはあわい優越感をくすぐられながも、それを強く押し隠して微笑んだ。
人の羨望や嫉妬はできるかぎり避けるべきだと痛感している。だがたとえ冗談でも夫を貶めるようなことは言えない。
――実際、ミヒャエルには欠点らしい欠点というものがなかった。
寒さの足音が聞こえてくる、晩秋の昼下がり。
貴人の訪(おとな)いなどほとんどないこの田舎で唯一大きな邸宅は、エインジェ伯爵の忘れられた別荘だった。
そのエインジェ伯の令嬢ジュネがここに移り住むまで、埃っぽい空気を閉じ込めるだけの大きな入れ物だった。
別荘はいまジュネとその夫の本宅になり、たまにこうしてジュネの友人を迎え入れている。
都から来た友人は、いつも洗練された装いだった。化粧にも衣装にも隙がない。
かつては自分もそのようにしていたことをジュネは思い出す。いまの自分を省みて少し恥ずかしくなることはあるが、この田舎で都時代のように着飾っていてもただ奇異の目で見られるだけだろう。
「出会いまで、演劇じみているじゃない。まったく、私もその泉とやらに行ってみようかしら」
友人のちょっとした皮肉に、ジュネはどきりとした。
内心に起こった細波を悟られぬよう、なんとか愛想笑いで繕う。
「不運続きだったもの。神がそのぶんの埋め合わせをしてくれたのだわ」
「十分すぎる埋め合わせよ、まったくもう」
友人は紅を塗った唇を尖らせる。
「ダヴィドとの破談は幸いだったわね。彼、いまの奥さんとあまりうまくいっていないみたい」
「……そうなの」
元婚約者のことを聞かされても、ジュネはまったく動じなくなっていた。
自分との婚約を白紙に戻したあと、ダヴィドは他の女と早々に結婚したとは聞いていた。はじめてそれを聞いたときは捨てられた自分の惨めさに涙が出たが、ミヒャエルを得たいま、ダヴィドには感謝すらしていた。
嫉妬した女性たちに根も葉もない噂を流され、婚約を白紙に戻されて逃げるようにして都を去った――その先で、ミヒャエルと会ったのだ。
友人の目が、ちらちらと部屋の扉に向く。
ミヒャエルが来ないか期待しているのだと思い、ジュネはじわりと不快感を覚えた。
この友人にはれっきとした他の婚約者がいるし、自分ともいまだに交友関係があるぐらいには顔が広いので、まさか不埒なことを考えてはいないだろうが――。
ミヒャエルはいつも人の耳目を集めてしまう。
夫が帰ってくる前に友人を帰したほうがいいのかもしれない、とジュネが思い始めたときだった。
「ただいま、ジュネ……おや、ご友人がいらしたか」
耳に甘い声。ジュネははっと顔を向ける。
友人もまた、待ち望んだものが表れたというように勢いよく顔を向けた。
「――おかえり、ミヒャエル」
ジュネは夫を誇らしく思う気持ちでいっぱいになる。
すらりと高い長身。薄いシャツ越しにも輪郭の美しさがわかる肩や腕、足。
純度の高い黄金で紡いだような髪。光の加減で紺色にも見える、紫の瞳。切れ長の目、真っ直ぐで高い鼻、彫りの深い目元――すべてが完璧に彫刻された顔立ち、あらゆる理想を集めたような見事な体格。
それがミヒャエルだった。
友人が、ほうと溜息を漏らす。
ミヒャエルはその完璧な美貌で微笑む。
「お邪魔だったかな」
「い、いえ、そんなことはありませんわ! ちょうどあなたにもご挨拶をしなければと思っていたところですの……!」
友人の声が弾み、少し上擦る。まるで十代半ばの初々しい少女のようだった。
この場を去ろうとするミヒャエルを、友人が引き止める。
ジュネはじわりと嫉妬のようなものを覚えたが、露骨にそれを表すようなことはしなかった。
――友人がミヒャエルと接するのはこういった場だけだ。いまだけ、我慢すればいい。
ミヒャエルもまじえて、三人で茶会になる。
「それにしてもジュネは幸せ者ね。あなたのような人と結婚できるなんて」
「いえ、幸せ者は僕のほうです。ジュネは僕を救ってくれたのですから」
ミヒャエルはごく自然に言った。優しい眼差しをジュネに向ける。
ジュネはそれにたとえようもない喜びと気恥ずかしさを覚え、身動ぎした。
のろけにあてられたと言わんばかりに、友人が溜息をつく。
「泉の側で、倒れていたとか」
「ええ」
「……その、ぶしつけなことを聞くけれど、記憶はまだ?」
ジュネは息を呑み、思わず語気を強めた。
「やめて。いくらあなたでも……!」
「いいんだ、ジュネ。気にしてないよ」
ミヒャエルはなだめるように微笑み、ばつが悪そうにする友人にも気さくに笑いかけた。
「記憶は戻っていません。ですが私はジュネに助けられ、ジュネの夫になった。その事実さえあればいい」
友人は慌てたように、そうよね、これからが大事よねと追従してみせた。
気負いのないミヒャエルの態度は、ジュネの胸を温かくする。
――そしてかすかに罪の意識をも呼び起こした。