転生令嬢、幼馴染みの貴族から結婚を迫られる。2

 イサーラはぐっと拳を握った。
 この色鮮やかな液体たちは、むろん絵の具を溶かした水などではない。

 ――薬水瓶ポーションなのである。

 薬効を持つ各種植物の部位あるいは動物の部位などを乾燥させたり混ぜたり煮つめたりして、いくつかの工程の末にできあがる、純粋な薬物なのだ。
 そのまま薬草などを取り入れる場合よりはるかに高い効果を発揮するし、日持ちするし、液体なので摂取しやすく、少量でいいのでこのように瓶詰めにすれば持ち運びも容易である。
 まさしく神秘、いや叡智の賜物である。

 イサーラは成功の高揚感に浸りつつ、奥の机に向かった。
 ペンやインク、ノートがあり――だが机の中央に主役のごとく鎮座する、だいぶ古びた皮の表紙の書物がある。
 イサーラには、その古さは重々しく厳格に見える。
 とほうもない試行錯誤と研鑽けんさん高邁こうまいな精神の結実。
 輝かしい書。
 ――《聖女アナヴィスの写本》だ。

 イサーラは椅子に腰を下ろすと、その古びた書物に恭しく触れ、ゆっくりと開いた。
 いかにも恰好つけた、優美な筆記体が整然と文字を連ねている。――写本した者の筆跡だ。
 しかしその少々鼻につく筆跡も、内容の素晴らしさを損ねることはできない。
 イサーラは熱心に読む。
《聖女アナヴィスの写本》は、その名の通り、アナヴィスという聖女の残した偉大なる記録の写しだ。
 アナヴィスが何を残したのかと言えば、薬効の認められる植物の覚え書きと、それの活用法、そしてポーションの作り方であった。
 特にポーションの発明は、画期的なことだった。

 アナヴィスの生きていた時代、聖女は奇跡の力を持ち、それによって人々を癒していたという。
 人々が頼るのは奇跡であり、聖女や王室であり、決して現実に存在する薬ではなかった。
 だがアナヴィスはその異能者でありながら、材料と工程さえ守れば、誰にでも癒しの力が再現できるようなものを開発した。
 それがポーションである。
 むろん、いくら画期的な発明といっても、奇跡などといった異能とは比べるべくもないが――イサーラ自身は、異能などというものには懐疑的である――再現可能であり、一定の効果を必ずあげられるという意味で、ポーションはまさしく世紀の発明であった。
 ……にもかかわらず、聖アナヴィスは過小評価されている。

 アナヴィスの残した記録は長く省みられず、どこかの倉庫の埃と時間の底に埋もれていた。その価値が認められるようになってきたのはつい最近のことだ。
 しかも、ようやくその価値に気づいた者たちが独占しようとして不当に秘匿されていた。
 イサーラがアナヴィスの写本を手に入れられたのは様々な偶然が重なった結果の、奇跡のようなものだった。

 イサーラはアナヴィスの伝記を読み、救われた人間である。
 アナヴィスは聖女としては不遇だったという。それでも折れることなく、己の信念のために突き進んでこれほどの偉業をなしとげたのだ。
 それまであること・・・・によってひどく悩み、世界と自分に繋がりを見出せず、灰色で不安定な日々を送っていたのが、アナヴィスの伝記を読み、彼女の残した叡智の結晶――その写本に触れることで変わった。

 アナヴィスのようになりたい――アナヴィスが一人でも多くの人に行き渡ることを願ったこのポーションを極め、普及させたい。

 それがイサーラの目的になった。
 この古びた小屋こそ、その第一歩になるのだ。
 写本は通して何度か読んでいる。そこに記されたポーションを一つずつ実際に作って検証するのが、イサーラの日課になっていた。
 ほとんどすべて一人でやっているから進みは遅遅としているが、着実に前進している。
 確かな手応えがイサーラの日々に活力を与え、生きる意味を与えるのである。
 今日も実際にポーション作りに取りかかる前に、しっかりと写本の該当箇所を読み込んで――。

「サーラ」

 やけに甘ったるい声と同時、いきなりずしりと頭に重いものが乗った。
 イサーラは少し慌てて振り向いたが、そこに闖入者ちんにゅうしゃの姿を見て大いに顔をしかめた。
 頭にいきなり乗せられたのは、闖入者の顎であったらしい。

「いきなり何! 邪魔しないで」
「冷たいなー。せっかく会いに来たのに。サラ、ここにこもってるんだって?」

 闖入者――ジュリオはのんびりと言って、珍しげに壁の棚や作業台を見回した。
 イサーラは顔をしかめる。

 銀灰色の髪、肌理きめの整った白い肌、太い眉の下で淡い影をつくる目元、灰色の目。
 イサーラにも劣らぬ高い鼻梁と薄い唇をしたジュリオは、淑女たちの噂の的だ。いわゆる美男、というやつなのである。整った顔にくわえて肩幅もあって背も高い。
 イサーラはときどき、ジュリオは途中で入れ替わってしまったのではないかなどと思う。
 小さい頃の、あの林檎色の頬と赤い唇、小さな肩や華奢な足を持った少年はどこへ行ってしまったのか。
 サラ、と呼ぶ声は愛らしく無垢だったのに、いまではこんなに低くてどこかただれた響きになってしまった。
 こんなに腹が立つほど気障で、大きくて固そうな体になる気配などどこにもなかったのに。

「何の用。見ての通り忙しいんだけど」
「忙しいって……それ、趣味だろ? なんか変な……ええと毒物作り?」
「薬!! ポーション!!」

 イサーラは思い切り顔をしかめて訂正した。
 しかし幼なじみの男は呑気な顔をするだけだった。

「ふーん。まあどっちでもいいや。いや、ちょっとサラに会ってないなと思って来てみた」
「はあ……? それなら事前に連絡してよ。それにええと……ハリエットだっけ。あの女性(ひと)がまた心配するんじゃないの」
「ハリエットとは別れたよ」

 さらりとジュリオは言って、イサーラを驚かせた。

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