転生令嬢、幼馴染みの貴族から結婚を迫られる。1

「結婚しようか」

 少し遠出しようか、とでも言うような口調だった。
 イサーラは男を睨んでいたので、その言葉の意味を理解するまで数秒かかった。
 そしてようやく理解したとたん、

「……は?」

 そんな間抜けな声が出た。

 

 ◆

 

 イサーラは今日も壁の花を決め込んでいた。
 むしろ壁の花にならなかったのはいつだっただろうか。社交界にはじめて出て行ったときぐらいかもしれない。
 どうせ今日も、義務で参加しているだけの無為な時間なのだ。

 数が正義だとでもいうように、無数の蝋燭ろうそくの火とそれを過剰に飾るガラスからなるシャンデリアが、夜会に集う人々を照らす。
 女性の引き立て役となるかのごとく暗い色の燕尾服に身をまとった紳士たち。
 主役となるべくこれでもかと飾り立てた色鮮やかなドレスをまとう淑女たち。彼女たちは、首回りや胸元ぎりぎりまで露出しながら、長手袋をして扇子を持っている。

(……意味がわからない)

 イサーラは眉をひそめる。
 こういった場における女性陣の恰好というのはどうもおかしい気がする。
 だが自分も同じ恰好をしているのだと気づいて、濡れた布をいやいやつまむようにドレスをつまみ、扇子は不可解な木の棒でもあるかのように思えて白けた目で見た。
 人のことを言える姿ではない。
 長手袋をして腕の大半を隠すぐらいならはじめから長袖を着ればいいし、扇子で口元を隠さねばらないなら、そもそも胸元ぎりぎりまで露出するようなドレスを着なければいいではないか。

 矛盾している。
 意味を見出せない。

 しかもこの色鮮やかなドレスたちといえば、ほとんどがイサーラを拒絶するのだ。
 イサーラは伯爵家の娘だが、この伯爵家は肌が浅黒い家系である。遠い異国の人間がきわめて稀な出世をして爵位をもらったという経緯を持ち、色白の者と結婚しても高確率で肌が褐色系になる。
 むろんイサーラも例外ではない。
 さらに言えば、イサーラの父や祖父ほど彫りが深く眉や髪の色が濃い貴人はこの国にはいない。
 そして祖父に似ているといわれるイサーラの顔立ちもまた、鼻が高く唇がやや厚めで、黒い睫毛はちょっと見ないぐらいに濃く長い。目の周りのくぼみも他よりはっきりしている。
 そのせいか、好意的な人間には神秘的な目とか言われるし、否定的な人間には陰険とか陰鬱だとかいわれるのである。
 色の濃い肌に負けぬぐらい、髪もしっかりとしていて黒々としている。
 イサーラからすれば、他の人間は肌が白すぎ、鼻梁がやや低めであるように思われた。
 だからそんな他の人間に合わせてつくられた色合いのドレスや装飾品は、イサーラの肌や顔立ちにはだいたい合わない。
 自分でも似合わないと思うのだから、他人から見てどうなるかは推してはかるべしである。

 暇のあまり無為な思考を弄んでいると、ふいにひそひそとした声、視線を感じた。
 扇子で半端に顔を隠した淑女たちが集まって、こちらを見て何かを噂している。
 イサーラはうんざりした。
 どうせまた無愛想だとか何をしに来たのかわからないとか、はたまたこの間の破談になった婚約についてどうのこうの、と言われているのであろう。
 すべて事実無根だし見当違いである。
 イサーラは溜息をつく。

(早く帰りたい)

 まったく時間の無駄である。
 自分はこんなところで時間を浪費する暇などないのだ。
 やりたいことがある。
 だが親には最低でも一刻はこの場にいろと言われたから、それは守らねばならない。
 早く時間がすぎればいい――イサーラはそれだけを願い、進みの遅い時間を耐えた。

 

 退屈で苦痛な夜会をなんとかやり過ごし、迎えた翌朝をイサーラは決して無駄にはしなかった。
 素早く目覚め、最速で身支度を調え、食事を済ませる。
 両親が溜息をついては嘆く、いつもの作業服に着替える。乗馬服をきわめて質素に改造し、その上に汚れてもいいように前掛けを着るという恰好だ。
 メイドというより庭師に近い印象になる。
 黒髪は後ろでざっくりとひとまとめにする。
 そうして、呆れる両親を横目に邸(やしき)を飛び出し、大きな建物の裏側にある小屋に向かう。
 もとは狩猟番の使っていた古い小屋で、場所を移動・改築することになって取り壊されかけたのだが、イサーラが無理を言ってもらいうけたのである。
 そこはイサーラの、唯一にして最大の|研《・》|究《・》|所《・》であり、輝ける人生の目標の第一歩であった。

 木造の小屋の扉には申し訳程度に錠前がついている。
 イサーラはポケットから鍵を取り出して差し込んだ。
 ここは伯爵家の敷地内であるし、この古びた小屋にわざわざ盗みに入るものなどいないのだが――それでも、ここにはイサーラにとってとてつもなく価値あるものが収納されている。

 小屋に足を踏み入れると、見慣れた光景がイサーラを出迎えた。
 まず中央に巨大な作業台。
 左右の壁には棚がもうけてあり、左の棚はフラスコやビーカー、試験管や各種秤などひととおりの道具がそろえてあり、右の棚は上のほうにその成果・・――小さな瓶に詰めた薬物、下段に時折確認する辞典などの書物がある。
 そして真正面の壁には細い机と椅子、それから数冊の本を立ててある。

 イサーラはすたすたと右の棚に近寄っていくと、整列した小瓶たちを眺めた。
 赤、青、緑などさまざまな色の水が静かに湛えられている。
 無知な人間は、絵の具を溶かした水がなぜこんなところに、などというかもしれない。

(……安定している。成功だ)

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