女性は、クレールと名乗った。近くに邸を持つ、子爵家夫人なのだという。
すぐ側だからと言われるがまま、グリシーヌは乳母と共に自宅に招かれた。突然自宅に招かれることも驚くべきことだったが、それ以上によりによって経緯が経緯だ。
それに、子爵夫人――。
既婚者であったということに、グリシーヌは愕然とした。
夫人の言葉によれば、若くして夫に先立たれ、いまは未亡人なのだという。
使用人の少ない邸のようだが、室内は品の良さに満ちていた。調度品から、主の趣味の良さがうかがえる。
同伴の乳母には少し席を外してもらい、グリシーヌはクレール子爵夫人と部屋に二人きりになった。
古いが清潔なテーブルの上に、買ってきたばかりの茶菓子とティーカップが二人分置かれる。
クレールは、いれたての茶の香りを楽しむように湯気をかいでから、ゆったりとカップを傾けた。
グリシーヌは困惑しながらも、本題をとせっつくような真似はせず、とりあえず自分もカップを傾ける。
奇妙な沈黙。
カチャ、とかすかにカップが置かれる音がする。
「突然のお誘いにもかかわらず、ご足労いただいて感謝いたします」
クレールは艶然と微笑み、まずそう言った。
いえ、とグリシーヌは短く答える。だが控えめながら、クレールがこちらを探るような視線を向けてきたので困惑した。
「あの……、お話とは?」
「ああ、失礼いたしました。あの噂のグリシーヌ様とは、どんな方なのかと思いまして」
たおやかな声が言う。
グリシーヌの頬は強ばった。――あの噂。それは、悪評という言葉も同意義だ。
「誤解なさらないでくださいな。確かにあまりよくない噂ですけれど、悪魔のような姉だなんて……こうして間近に見てみると、いかにもつまらない表現だと思いますわ。いくらロジエ嬢が天使のような方だからといって、その反対に姉君を悪魔のような、などと……あまりに陳腐です」
クレールはそう言って、むしろ失笑した。
グリシーヌは意表を突かれた。
「ですが、悪魔のような不思議な力ならばおありなのかもしれませんわ。私はそれを聞きたかったんですの」
白い指をゆるく組み合わせ、クレールは言う。
話の展開が見えず、グリシーヌはぱちぱちと瞬きをする。悪魔のような不思議な力。そんなものはない。一体何を言っているのだろう。
困惑が顔に出たのか、クレールはふふ、と笑った。
「あの遊び上手なオリヴァーが、あなたがた姉妹と関わりはじめてから、ぴたりと遊びをやめてしまいましたの。いままでどのような美女もそうさせることはできませんでしたのに」
グリシーヌは大きく目を瞠った。予想外の言葉に、薄く唇を開いたまま固まってしまった。
衝撃の頂点が過ぎ去り、ようやく思考が戻ってくる。
(あのオリヴァー卿が……?)
クレール夫人の冗談ではないか、とは一瞬思ったが、事実そうなのではないかという気持ちのほうが強かった。
――ロジエに対する態度が常に紳士的で誠実なのは、この目で見てきたことだ。
クレールの言葉を聞く前から、オリヴァーは変わったのではないかという気がしていた。
「……でしたら、きっと……私の妹に対して、誠実であろうとしたためではないでしょうか」
「薔薇の天使が、あのオリヴァーを改心させた……ええ、納得しやすい答えだとは思いますわ。けれど……」
クレールは指を組んだまま、少々はしたなくテーブルの上に肘をついた。組んだ指の上にほっそりした顎を乗せ、グリシーヌを見つめる。
「私には、こうも思えるのです。薔薇の天使と出会ったからというより……薔薇の天使に、悪魔のような姉が同行するようになってから、オリヴァーが変わったのではないかと」
グリシーヌは忙しなく瞬いた。
「わ、私が……?」
「ええ。ですがあなたはこうして見ると、とてもあのオリヴァーを脅したり、巧みな駆け引きを繰り出す方には見えません。あのオリヴァーが簡単に脅しに屈するわけもないですし、駆け引きにいたっては憎らしいほど巧みですから」
半ば混乱したまま、グリシーヌは頭を振った。
「私など、何も……。本当に、ロジエへの思いゆえに……変わってくれたのだと」
「むろん否定はしません。けれどオリヴァーが薔薇の天使のために変わったと考えるにしては……どうも、礼儀正しすぎる気がいたしますの」
グリシーヌは虚を衝かれた。
「れ、礼儀正しすぎる……?」
「ええ、冷静すぎるといっても構いませんわ。グリシーヌ様は、そうは思われませんでしたか? オリヴァーの態度は、あまりにも完璧すぎるとは思われませんこと?」
まるでそう装っているみたいに、とクレールは言った。
それは、軽い衝撃を伴ってグリシーヌの頭中に響いた。
(冷静、すぎる……? 装っているみたい……?)
思いも寄らぬ指摘だった。完璧な態度だとは思っても、それが不自然だとは考えもしなかったのだ。
クレールはたおやかに微笑したまま続けた。
「オリヴァーは、遊びはしますけれど決して相手を傷つけたりはしませんの。むしろ、とてもきれいな遊び方をするのですわ。扱いがうまく、一時の甘い夢を見せてくれる完璧な貴公子……。そう、誰に対しても礼儀正しいのです」
グリシーヌははっとする。
「そ、それは……、だ、誰に対しても礼儀正しいというのでしたら……あの、ロジエに対しても……」
あれほど妹に紳士的だったのは、彼にとってそれが常であったからだろうか。他の、遊びの相手だという女性と同じように。
突然あらぬところから不安の雪崩が押し寄せてくる。
クレールは一瞬、目を丸くした。それから、こらえきれないとばかりに艶やかな声をあげて笑った。
「なんと心配性な姉君でしょう。ロジエ嬢がオリヴァーに特に丁重に扱われているというのは見ればわかることですわ。ただ、あまりにも理性的なものですから、オリヴァーがこれまでの行いを変えてしまうほどの何があったのかと疑問に思ったのですのよ」
不安の種の一つであった張本人からそう言われ、だがグリシーヌは奇妙にもやや安堵した。
(そう……よね)
考えてみれば、クレール夫人は悪人ではなさそうとはいえ、知り合ったばかりの相手である。
その相手の言葉と、自分が目にしたオリヴァーの実際の行動や態度のどちらを信じるかなど、考えるまでもないことだ。
そして当のクレール夫人もまた、オリヴァーのロジエに対する態度は偽りではないと言っている。
(でも……、だとしたら……?)
不安が退いていくと、今度は疑問がわいてくる。クレール夫人の言う通り、何がオリヴァーを変えたのだろう。
あらあら、とクレール夫人は笑った。
「ですから、あなたが原因かと思ったのですわ。あのオリヴァーを一途にするなど、いったい、どんな魔法を使われましたの?」
「! わ、私はそのような……! 関係ありません……!」
「そうかしら? ではオリヴァーは、あなたにも“夢のような”貴公子に見えますの?」
ただ不思議そうに、夫人は言った。
グリシーヌは思わず言葉に詰まった。
夢のような――完璧な貴公子。ここ最近のロジエに対しては、それに近いものがある。
だが自分に対してはどうかというと……。
――はじめて邸に訪れ、悪びれもせず他の女性との関係について語った態度。
皮肉っぽく、からかうような口調と笑み。
ロジエと一緒の歌劇に来ておきながら、ロジエのいない間に、自分に対して不適切な言葉を投げかけてきたこと。
どれも、礼儀正しいとは決して言えない。
――けれど。それなら。
(な、何なの……?)
グリシーヌは混乱した。なぜか、胸の内側で鼓動が大きくなりはじめる。
黙り込んで表情を変えるグリシーヌを見て、かつてオリヴァーの一時の恋人であった夫人が、
「あらまあ……本当に魔法を使われたようですわね?」
と、少し驚いたような声をあげた。