泣いても喚いても、変わらなかった。
キャスリンの体は押し上げられ、両腕を開かされて十字架の横棒に縛り付けられた。
縦棒には首を、胴を、足首を縛り付けられる。きつく縛り上げられ圧迫され、吐き気がこみあげてくる。
足のすぐ下は山のような藁で埋め尽くされている。
執行人の男が、ふいに持っていた油壺をキャスリンに向けてぶちまけた。
「……っ!」
独特の異臭とべたついた油が顔に体にかかる。キャスリンはとっさに顔を背けたが、逃れられるはずもなく不快なほどに濡れた。
ジジジ……と音が耳をついた。
目を向けると、夜でもないのに男が松明を持っているのが見えた。
キャスリンの体は引きつり、震えた。
炎――あらゆるものを焼き尽くすそれ。
まるでその火が世界中に広がったみたいに、辺りは夕陽の濃い色に包まれていた。
――世界のすべては火の海に沈んで、自分はその中で溺れているみたいだった。
火を。火を。火を。
見物客たちが叫んでいる。早く火をつけろと叫んでいる。
誰もキャスリンを助けてはくれない。慈悲深きテレサにさえ見捨てられている。
ラッセルの姿もない。
枯れたはずの涙が、油とまじりながらこぼれていった。
(なぜ……)
なぜ、こんなことになってしまったのか。なぜ死ななくてはいけないのか。
(なぜ、私が……)
――私だけが、こんなふうに死ななくてはいけないのか。
否。殺されなくてはならないのか。
「浄化の火の中で悔い改めよキャスリン」
執行人が厳かに言う。
キャスリンはのろのろと顔をあげる。油と涙と塵芥で汚れ、ほつれた髪が枯れ草のようにはりついた顔で世界を見る。
火の色に沈み、もうすぐ自分を葬ろうとする世界。
ただそこにいるだけで、生まれてきただけで疎まれ罪とされる世界。
自分だけが拒絶された世界。
結局――善くあろうとして、自分が悪いのだとずっと言い聞かせて、責めて責めて抑えつけて数えきれぬほど自制して自省して、他人に合わせて尽くした結果が、これだ。
自分という人間は何だったのか。なんのために生まれてきたのか。
『……あなたは魔女だもの。忌まわしい血をひいているのよ』
聖女の声が耳の奥に蘇る。その言葉がいま、唐突に理解をもたらす。
――それがすべてだったのだ。
(ああ……何の意味も、なかったのだわ)
どれほど善行を積もうとも、誰より正しくまともであろうとしても、魔女の血を引く限り、決して許されなかったのだ。認められることなどなかったのだ。
無意味な空回りでしかなかったのだ。
そう理解したとたん、ぱきん、と胸の奥で何かが砕ける高い音がした。
「ふ、ふ……あははははははは!!」
砕けた奥からこみあげるまま、喉を笑いが迸った。
かつてない大きな声で笑い、それは長く止まず、夕闇の世界に響き渡る。
見物客が一瞬しんと静まり、火を持った執行人が気圧されたように後ずさりした。
「お、お前……何がおかしい! 何を笑っている――」
執行人が言う。キャスリンはなおも一通り笑い続け、ようやくそれをおさめて、はあ、と気怠く息を吐いた。
「あア、おかしい――これがおかしくなくて何がおかしいの? 滑稽よ、こんなに愚かしいことはない。最初から無駄なことだったんだわ……自分を殺すことなんて」
なんということはない。自分が自分であったから、男爵家のキャスリンという人間として生まれたから魔女として見られ、聖女にすら嫌われたのだ。
なのに好かれようとするなど、まったくもって無意味だった。
火と水が決して入れ替えることのできぬように、この身に流れる血を変えることなどできはしないのだから。
「き、気が狂ったか……!!」
執行人が言い、見物客が勢いを取り戻す。火を、火を、火を――。
執行人は王宮のバルコニーを、聖女のいるほうを見た。最後の許可を待っている。
聖女はかすかに、うなずいたようだった。
火が、キャスリンの足元に積まれた藁に近づけられた。かすかな接触で、瞬く間に紅が藁を飲み込んでゆく。
そのあまりの勢いに執行人が後ずさりする。
炎が勢いよく爆ぜる音が響き渡り、十字架にかけられた罪人とそれ以外を火炎が隔てる。
火焔のヴェールの中――キャスリンは静かにつぶやく。
「狂った……? いいえ、私は――」
いま、正常に戻ったのだ。
熱が、橙色が世界を覆う。キャスリンだったものを焼き尽くそうとする。
――真っ先に焼失したのは恐怖だった。
怯えが、臆病が、卑屈が、不信が、否定が瞬く間に火にくべられていく。
キャスリンの体は軽くなり、かつてない解放感を味わう。
いまはじめて、この世界に生まれたかのように。
炎の舌がキャスリンの爪先を舐めた。餓えたように瞬く間にその足から腰へと這い上がり、胴体を包む。
胸を――心臓を、炎が触れる。
縛られた手へと伝い、やつれ汚れた頬を炎の舌先が這う。
痩せた頬を汚す油を丁寧にぬぐい去り、青白い肌に火の照り返しが、あたたかな色味を与える。
火は、その紅の指先を、枯れた草のようになった髪に絡める。
キャスリンは目を閉じて一度炎にすべてを許し、ふいに十字架から落ちた。
それから再び瞼を持ち上げた。
体を戒めていた縄はいまやただの燃え滓になって消えていた。
キャスリンはゆっくりと立ち上がり、裸足で火の海に降り立った。
――どこかから悲鳴があがった。無知な悪意の見物客からか、あるいは自ら火をつけた執行人からか。
火は、もはやキャスリンの敵ではなかった。
肌はおろか、髪の毛一つ焼くことはない。
その手足や髪に恭しく口づけてとどまるだけの熱であり、紅の光を発する装飾でしかなかった。
キャスリンは完全に火を従えていた。
誰かが、言った。
「ま、魔女――」