「聖女様?」
訝しむ声に、ティアレははっと現実に戻った。
神殿の広場、質素な敷布の上に上体を起こした中年の男が、不安げにティアレを見上げていた。包帯の巻かれた右手を庇うようにしており、ティアレはちょうど両手をかざして、《癒しの奇跡》を施している最中だった。
「ご、ごめんなさい。も、もうだいじょ……」
大丈夫、と言いかけてティアレは息を飲んだ。
癒したはずの男の右手は、完治していなかった。
(……力を、見誤っただけ)
体の底が冷たくなるような感覚を無視して、自分にそう言い聞かせて再び両手に意識を集中した。
白い掌が淡く光り、男の腕も呼応するように淡い光に包まれる。
しばらくしてその光がおさまると、ティアレは今度こそ完治していることを確認し、微笑んだ。
「はい、もう大丈夫ですよ」
「おお……! ありがとうございます、《星の聖女》さま!」
男の素直な感動と感謝が、わずかにティアレの心を軽くした。
ティアレの結い上げた長い髪は濃紺で、瞳も同じ色だが、中心にかすかな金色が散っている。――それが星空のようだと称賛したのは、この国の王子その人だった。
それ以来、ティアレは《星の聖女》と呼ばれるようになっている。
「あなたにフルーエン様のご加護がありますように。次の方、どうぞ」
微笑と共に、男を送り出した。
そしてほんの一瞬、自分の手を握った。
(大丈夫……まだ、やれる)
自分をそう鼓舞した。
柔らかな毛皮に顔をうずめたまま、ティアレは動かなかった。
ぱた、ぱた、とゆっくりとした音が聞こえる。アズの尻尾がゆっくりと絨毯をたたいているのだ。まるで子供をなだめる子守歌のようだと思う。
言葉が通じなくとも、賢いアズはいつもティアレの疲労を察知し、こうして優しく受け止めてくれる。
魅惑のふわふわ体毛にティアレはうっとりと頬ずりをした。
未練たっぷりに、なんとか顔を上げる。このままではあまりの気持ちよさに眠ってしまいそうだったからだ。
どんな絨毯よりも柔らかな寝台よりも、アズの体は温かく、その毛皮は柔らかい。
白狼のアズは、知性を感じさせる濃緑の目でティアレを見ていた。三角の耳はピンと立ち、ほっそりとした長い鼻先などは洗練された印象さえ受ける。
両手を重ね、座り込んでティアレに柔らかい腹を貸す様子などは高貴ですらあった。
「……ありがと、アズ」
アズは答えなかったが、ぴくりと片耳を動かした。それが返事のようだった。
ものいわずじっと見つめてくる瞳に問いかけられているような気がして、ティアレはなんとか笑った。
「大丈夫。ちょっと疲れが出たみたい」
つとめて明るくそう言った。
だがそうしながら、無意識に自分の両手に目をやった。
(大丈夫……)
不安に蓋をするように、そう言い聞かせる。
自分はこの国の《星の聖女》なのだ。
(しっかりしなくちゃ)
心の中でそう叱咤して、自分の両頬をたたいた。
すると、扉が控えめにたたかれる音がした。王子の来訪を告げる声が続き、ティアレの顔はぱっと明るくなる。
慌てて髪を直し、衣の裾を払って立ち上がった。
扉が開かれ、目に鮮やかな赤毛の青年が入ってくる。
アズの耳がぴくりと動き、その目が青年に向いた。
「ティア! ご苦労だったな! 疲れていると聞いたが、大事ないか?」
明るく、感情の豊かな声だった。ティアレの胸はふわりと温かくなり、頬に淡い熱がのぼった。
見事な髪の色だけでなく、この国の第二王子たるベルンは数いる王子王女の中でも際立って端正な容貌をしている。明るい灰色の瞳にも活力が満ち、快活な性格からくる輝きが全身に漲っているようだった。
「もったいないお言葉です、ベルン殿下。この通り、なんともございません。ご心配をおかけして……」
「ああ、そういう堅苦しいのはいい。相変わらずお前は真面目だな」
赤毛の青年――王子ベルンは笑って、ティアの両肩に手を触れた。
明るい灰色の瞳に見つめられ、ティアレの心臓がはねる。
「無理をするなよ。お前はこの国を支える重要な人材なんだ」
「はい」
ティアレが真面目にうなずくと、ベルンはまた笑った。
「まったく。女神もねぎらいの言葉一つかけてくれたらいいのにな。仕事のことばかり語りかけられても、お前も息が詰まるのではないか? 無理をするな、というようなことは言ってくれないのか?」
何気ない戯れの言葉に、ティアレは凍り付いた。体の柔らかい場所に鋭利な一撃を食らったようだった。
頬がこわばる。必死にそれを抑え、微笑を保った。
「……フルーエン様はいつもこの国の安寧と繁栄を願っておいでですから」
「そうか! はは、真面目な女神様だ」
ベルンはからりと明るく笑った。
それからふいに身をかがめると、ティアの額に口づけを落とした。
ティアレは大きく目を見開いた。同時に額を両手で押さえ、瞬く間に顔が熱くなった。
「体を大事にな、婚約者殿!」
ベルンは声をあげて笑うと、風のように身を翻す。軽く片手を振って、部屋を出て行った。
ティアレは額を押さえたまま、ぱちぱちと瞬きをしてその姿を見送った。
やがて、そろそろと両手を下ろす。
口づけられた箇所に、ベルンの明るい熱がともされたようだった。鼓動が速く、軽やかな音を刻んでいる。
(……頑張らなくちゃ)
胸に広がる温かさの中、ティアレは再び強く自分に言い聞かせる。
――この国の人々のために。そしてベルンのために。
高揚感が突き上げてくると同時に、拭いようのない不安が影のようにつきまとう。
(フルーエン様……どうして私に答えてくださらないのですか)
強く両手の指を組むと、かすかに震えているのがわかった。
ベルンには決して言えない。
ベルンだけではない、神官たちにも。それ以外の人間にも。誰にも――決して知られてはならない。
本当は、女神の声など聞こえていないなどとは。