(……さて、これからどうしようかな)
厨房に戻り、食器の洗浄まで済ませてフィアルカはため息をついた。
つくったものは無事完食され、エレナの顔色は別人のようによくなった。食後にぬるま湯を飲んだあと、健やかな顔でまた眠りについたところまで見届けた。
思わぬ寄り道になってしまったが、やはり自分の料理で人を助けられたのは悪くなかった。
報酬として、路銀ぐらいはもらってもいいだろう。
「フィアルカ」
背後からの声に、フィアルカは振り向いた。壁によりかかっていたラピスも、いかにも不機嫌な顔をして声のほうを見やる。
ユーリイが真摯な表情をしてそこに立っていた。
「礼を言わせてくれ」
「いいですよ。そのために寄ったんですから。……まあ、報酬はいただきたいですが。旅費にしますので」
「むろん、払う。その、旅費というのは……どこか行かなければならないところがあるのか?」
そうではないですが、とフィアルカが言おうとしたところに、冷ややかな声が覆いかぶさった。
「お前には関係のないことだろう」
いかにも挑戦的なラピスの口調に、ユーリイは眉をひそめて睨む。
だがすぐにフィアルカに目を戻し、どこか切迫した気配を漂わせた。
「ここにいてくれないか。当然、給与は払う。待遇も、できるかぎりそちらの要求を呑む」
フィアルカは息を飲んだ。
は、とラピスが鼻で笑う。
ユーリイはなおも切実な光を宿した目で、一歩フィアルカのほうへ踏み出した。
「頼む。エレナが、こんなに回復したのははじめてなんだ」
懇願するような響きに、フィアルカはぐらりと心が揺れるのを感じた。
――マルティーノに裏切られ、捨てられて、若い貴族の男などもう二度とかかわらないと決めたのに。
当分、特定の誰かに雇われるなどうんざりだと思っていたはずだったのに。
ユーリイが、妹をどれだけ案じ、思っているかを目の当たりにしてしまった。
(……でも、この人もまた……)
はじめこそ丁寧に迎えても、また態度を変えるのではないか。
お前の代わりなどいくらでもいると。
自分を、使い捨てるのではないか。それだけのことができるだけの地位だろう。
「……特殊調理師は他にもいます。他の人を呼んでみたら……」
複雑な気持ちでフィアルカがそれだけ言うと、ユーリイは頭を振った。
「……何人か、呼んだことはある。だがエレナはほとんど食べられなかった」
フィアルカは何も言えなかった。
かわりにラピスが冷ややかに笑った。
「大方、雌鶏のように着飾った人間に気に入られようとしたものばかりだったのだろう。病弱な雛が食べられるようなものは作らなかった」
「……エレナは、雛ではない」
ユーリイはそこだけ睨んで訂正した。
それ以外のラピスの言葉は、的外れなものではないということのようだった。
フィアルカは、自分を追い出したマルティーノと特殊調理師を思った。
――魔物の肉という極めて特殊な食材を扱うにもかかわらず、味や珍しさばかりを求める貴族。貴族に気に入られることばかりを気にする特殊調理師。
そこには、食材を口にする相手の体質や健康上の問題という視点が抜け落ちてしまっている。
そもそも魔物を使った料理というのは、単に珍味美食というだけではないのだ。
黙り込んだフィアルカに、ユーリイはなおも一歩踏み出す。
「エレナが食べられて、あそこまで回復するようなものを作ってくれたのは、あなただけだったんだ」
世辞でも媚びでもない、率直で素朴な言葉が、フィアルカをさらに揺らした。
胸に淡く熱が宿る。
「……魔物の肉を使った特殊調理は、本来は、《毒魔》に対する唯一の治療法なんです」
自然とわきあがった言葉が、ぽつりとこぼれ落ちた。
(……人を助けるための。食べる喜びと、生きる喜びを知るための……)
――胸の奥深くに積もっていた思いが、蘇ってくる。
かつてフィアルカは、聖女だった。否、聖女のなりそこないだった。
神に仕え、奇跡の力を授かって人々を癒す聖女になりたくて、だがなれなかった。
奇跡の力は与えられず、ただ他の聖女たちより少しばかり丈夫な体を持っているだけだった。
魔物の肉を使った特殊調理、そしてその特殊調理で救えるものがあると知ったのは、そんな時だった。
フィアルカの丈夫な体と、各種の毒を持つ魔物の肉を扱う工程は、思いのほか相性がよかった。
貴人に取り入って成り上がるためではなく、裕福な人間に重宝されるためではなく、ただ聖女に似た役割を果たせる特殊調理師を目指してきた。
――だが、マルティーノのように、他の特殊調理師のように、富裕層に好まれるような技巧を尽くした調理を作れないのは未熟な証であると嗤う者たちは決して少なくなかった。
「……フィアルカ。それならいっそう、私はあなたを雇いたい」
考えに耽る中に、凛とした青年の声が飛び込んだ。
フィアルカは反射的に、ユーリイの顔を見た。
強い目は、願うようにフィアルカを射抜く。
――マルティーノの傲慢さとも、次の美食は何かと子どものように期待する目とも違う。
「あなたが必要だ。特殊調理で、《毒魔》を和らげてくれる――退けてくれる、あなたが」
熱を帯びた声。
それが、マルティーノの声までも上書きするようだった。
フィアルカはぎゅっと目を閉じる。
――もう裏切られたくない。惨めな思いをしたくない。
ここで振り切れば、少なくともそんな思いはしなくて済む。
フィアルカ、とラピスが呼んでいる。ユーリイの言葉など聞くなというように。
(……でも)
おいしい、と目を輝かせた少女の顔が。
不器用に目を見張って、驚きと喜びをあらわにするユーリイの表情が頭から離れない。
フィアルカはうつむいたまま、弱い抵抗を示すように、言葉を投げかけた。
「……私、ちょっと厄介ですよ。追放されてますから」
「追放? なぜ?」
「希少な魔物の肉を盗んだとかで。まったくの冤罪ですけど、信じてもらえなかった」
ユーリイは一瞬黙った。
それが、フィアルカの胸に冷水を浴びせる。
(やっぱり……)
信じてはもらえないのだ。魔物の肉は貴重で、調理せずとも高値がつく。特殊調理師だと偽って厨房に入り込み、盗んでいく者も実際にいる。
マルティーノも――結局は、フィアルカをそういった輩であるとみなした。貴族ではない下賤だから。聖女になりそこねたできそこないだから。
「あなたは、盗んでないのだな?」
短い言葉だった。
しかしそこにこめられた力に、フィアルカは思わずはっと顔を上げた。
真っ直ぐな目と合う。誤魔化そうとしない、誤魔化すことも許さない眼差し。
フィアルカはユーリイの目を見つめ返したまま、口を開いた。
「盗んでません」
強く、怒りあるいは反発といったものをこめて言った。
――マルティーノとも同じようなやりとりをした。そしてマルティーノは嗤い……。
ユーリイは言葉少なにうなずいた。
「信じる。あなたがエレナを助けてくれるなら、私があなたを守る」
青年の目は揺ぎなくフィアルカを見つめていた。そこには虚偽も虚栄もなかった。
フィアルカは息を飲む。そして、じんと目の奥が熱くなった。
ラピスが、うなりにも似た不満の息を漏らす。
「脆弱な人間ごときがほざくな」
「何? そういうお前も同じ人間だろう!」
「俺を貴様らと一緒にするな」
胸にこみあげたものを噛みしめる間もなく二人がやりあいはじめてしまい、フィアルカは慌てて割って入った。
数度瞬きして目の奥の熱を押し込め、深呼吸をする。
そして、言った。
「わかりました。では、エレナさんが治るまで……私にできることをやりきるまで、ここで働きます」
ユーリイの顔が、ぱっと明るくなる。
対照にラピスは顔をしかめ、おい、と苦い声をもらす。
たちまちユーリイは距離をつめ、ぎゅっとフィアルカの手を握った。
「よろしく頼む!」
その手の熱さに、触れられる手にフィアルカは驚き、そして頬が赤くなるのを止められなかった。
「よ、よろしく、お願いします」
たじろいでいると、長身のラピスがふいに割り込んできて、べりっとユーリイを引きはがす。
ユーリイがラピスを睨んだ。
「お前は雇わんぞ!」
「俺は誰にも飼われるつもりはない」
また二人が火花を散らし始め、フィアルカは呆れた。だがすぐに、苦笑いになった。
口論をやめさせようと思いながら、ふと周りを見回す。
余った果物。砂糖、小麦粉。
あの可憐な少女に、もっと美味しく食べてもらえそうなものがある。
よし、とフィアルカは笑った。
「じゃあ、次は食後のデザートでもつくりますか!」