「お待たせしました」
盆を手に、フィアルカはユーリイとともにエレナの部屋に戻った。
すぐに、ユーリイがエレナの側につく。
「とりあえず、スープを一口だけでも」
フィアルカの言葉に、ユーリイがそっと妹の体を起こした。
少女の髪は汗でしっとりとこめかみに張り付き、瞼は重たげに、大きな目を半分隠してしまっている。
青い血管が透けそうなほど白い肌をしているのに、いまそこに浮かんでいるのは禍々しい黒の網目だった。
「何も、食べたくない……」
「……一口だけでいい」
ユーリイは優しく言い、妹の顔にかかる髪をそっと指で払った。
フィアルカは寝台の側のテーブルにいったん盆を置き、スープの皿と匙を取る。ユーリイの隣に腰かける。
「いい、香り……」
エレナがか細い声で言う。
フィアルカは精一杯明るい笑みをつくった。
「おいしいですよ。味見だけでもどうぞ」
そう言って匙ですくい、抱き起こされた少女の口元にそっと持っていこうとする。
だが、
「……待て。はじめに私が試す」
ユーリイが硬い表情で遮った。
フィアルカはむっとする。が、背後からラピスの冷ややかな声が聞こえた。
「食い意地が張ってるな」
「な……っ、わ、私を愚弄するか! そのような卑しい意図ではないっ!」
青年の端正な頬にさっと朱色がさす。
ラピスにだけは言われたくないだろう、とフィアルカは呆れてしまった。そしてすっかり怒気がなくなる。
「まあ、毒味をしたい気持ちもわかります。あなたにも必要ではありますから、どうぞ」
そう言って、匙をユーリイの口元に向けた。
ユーリイは妹の体を両手で支えているため、塞がっている。
そのため、フィアルカはごく自然に匙を差しだしたのだった。
が、ユーリイは虚を衝かれたような顔をする。
そしてとたん、たじろぐ。
フィアルカはいぶかった。
「なんですか? そんなに私の料理が食べられないと?」
「そ、そういう意味ではない! そうではなく、その、破廉恥な……いや、もういい!」
自棄なのか意を決したのかわからない謎の勢いで、ユーリイは匙を口に含む。
そのときはじめて、フィアルカは気づいた。
この状況は――恋人同士などの、甘ったるい食べさせ合いの構図だ。
親と子がやるようなものと同じ、と割り切るには相手が悪すぎる。
さすがにフィアルカも気恥ずかしくなって頬に熱を感じながら、匙を引っ込めた。
ユーリイの喉がかすかに上下し、その目が見開かれた。
ラピスが、不満げな鼻息を漏らすのが聞こえる。
「……どうですか?」
気まずさを追い払うように、フィアルカはユーリイに感想を求めた。
だがユーリイはわずかに視線を動かし、ためらっているように見えた。
「毒は……ない」
気もそぞろといった様子でユーリイは答え、フィアルカは片眉を上げた。
だがそれに関して追及するのはやめ、もう一度匙ですくい、今度は少女の口元に持っていった。
血色を失い、青紫色になった小さな唇の間にそっと匙を含ませる。
白く細い喉が嚥下する。
朦朧としていた少女の目に、わずかに生気が戻った。
「おいしい……」
消え入りそうな声がそうこぼされたとき、フィアルカはほっと安堵した。
素朴な、肉と野菜の煮汁。だが素朴だからこそ、肉と野菜の旨味がそのまま出る。野菜と煮込むことでウェイスボア独特のくさみも消え、柔らかくなる。口の中でほろりと繊細に溶け、胃腸にも優しい。
支えていたユーリイもまた、顔を歪めてきゅっと唇を引き結ぶ。――泣きそうになるのを、堪えるような顔だった。
「よかったな。もう少し食べられるか?」
「……うん……」
「いい子だ」
兄と妹の姿に、フィアルカまで少し目の奥が痛くなった。
すん、とひそかに鼻をすすって、また匙をすくっては小さな唇の中に運んだ。
瀕死の雛に必死に餌を運ぶ親鳥のような気分だった。
二匙、三匙、四匙――エレナの細い喉が嚥下する。
やがて、白い肌に禍々しく浮かんでいた黒い網目が薄くなっていった。
重たげだった瞼が持ちあがり、朦朧としていた目に焦点がはっきりと結ばれはじめる。
スープの器が空になる頃には、少女の頬から禍々しい網目は消えていた。
エレナは驚いたように大きな目を瞬かせる。
「お兄様、わたし……楽になったわ」
「エレナ……!」
フィアルカは自然と微笑んだ。盆に器を戻し、今度は切り分けたパンを更に二つに割り、両方にパテを塗る。
「もう少し食べられますか?」
エレナはそこではじめてはっきりとフィアルカを見て、また目を見張った。
「あの、これは……?」
「まあ、説明は後で。はいどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
フィアルカが差し出した一切れを、エレナはおずおずと受け取る。
ついでに、フィアルカはもう一切れを兄のほうに渡した。
「毒味、どうぞ」
「……あ、ああ。いや、その……」
皮肉の調子がまざったフィアルカの言葉に、ユーリイは気まずそうにした。
フィアルカは苦笑いして、いいですよ、と付け足す。
さく、とエレナの小さな口が、パテの乗った部分を一かじりした。
その大きな目が即座に驚きをあらわし、そしてきらきらと輝くのをフィアルカは見た。
少女の小さな口がもぐもぐと礼儀正しく咀嚼して嚥下しきったあと、
「おいしい……!」
先ほどよりはつらつとした声で、驚嘆を滲ませた。
白い両手で持ったパンのかけらを信じられないというように見つめると、再びかじる。
今度はゆっくりと、いくぶんか味わうようにする。
「まろやかで、こくがあって……なのに後味がとても上品で……食べたことがない味だわ」
可憐な声でそう言った。
思わぬ賛辞に、フィアルカは大いに照れた。兄と違い、妹は言葉での表現力に恵まれているらしい。
おいしい、と再び感動を表す妹を、ユーリイは少し驚いたように見つめていた。
だが自分もまた、渡された一切れをそっとかじる。咀嚼して嚥下する。
フィアルカが思わずじっとその反応を見ていると、ユーリイは一瞬固まったような様子を見せ、やはり妹と同じようにかじったばかりのパンをまじまじと見た。
それからもう一口、二口とかじる。
「……本当にうまい」
簡素な、だが深い感嘆まじりの声に、フィアルカはまた自然と笑みがこぼれた。
自分用のパンがラピスに横取りされたりしながらも、盆の上の料理はあっという間に空になった。