腹に響くような低い声。大きな手が頬に触れ、フィアルカはとっさに顔を背けた。
――ラピスは狼のときでも遠くまでよく届く声をしているが、人の姿になると聞く者を酔わせるような低音を帯びる。
だが、それにしたところでいまの声は不自然なほど甘いとフィアルカの耳に感じられた。
触れられることを厭うように顔を背けたというのに、男の大きな手はいつまでも頬に触れたまま、するりと滑って今度は顎をとらえ、フィアルカを自分に向けさせた。
「慰めてやろうか」
更にはっきりと、甘ったるさを増した声で人に擬した巨狼は言った。その声は耳から蜜となって流れ込み、瑠璃色の瞳はフィアルカを見つめ、吸い込むような深さをしていた。
フィアルカは一瞬、その誘惑に負けたくなった。
――慰めを必要とするほど、心は弱っていた。
この男の甘く惨い誘惑に負けてしまえば、これまで築き上げてきた相棒という無二の地位を失ってしまう――そうわかっていてもなお。
だが習慣が、辛うじてそれを上回った。
ややぎこちなくも思い切り顔をしかめ、ぺちんと男の手首をたたいて顎に触れる手を押し退ける。
「ばかなこと言わないで。スープが冷めないうちに食べるよ」
「なんだ。せっかくこの俺が慰めてやろうというのに」
「……そりゃどうも。お気持ちだけもらっときます」
じろりとフィアルカが睨むと、ラピスはあっさりと広い肩幅をすくめた。
フィアルカは男に背を向け、小屋に戻った。
向かいあう形で、二人、テーブルにつく。
フィアルカの正面で、精悍な長身には窮屈な、粗末な椅子に腰掛けたラピスは、それでもテーブルの上のものを見ると機嫌が良さそうな顔をした。
フィアルカは胸の前で両手を軽く重ねた。そのまま目を閉じ、祈りの言葉を口にする。
「天地の恵みに感謝し、森と水の育んだ命を我が糧として明日の命に繋ぎます」
ラピスは黙っている。たぶん、呆れるか怪訝そうな顔をしているのだろう。生きるために狩る、喰う――狼のそれは純粋で無駄がない。その分邪念もない。
食べるときに、その食材に感謝するということは、フィアルカなどの人間の習慣でもあった。
フィアルカは匙を取った。まずは、コカトリスの肉入り野菜スープだ。一口目は、汁だけを味わう。口に含んだとたん、豊かな旨味が広がった。
コカトリスの肉は、鶏肉に近い味をしている。ただ味は何倍も濃い。
魔物であるから、当然調理に高度な技術を必要とする。
肉は下ごしらえを十分にしてあったから、魔物の肉特有の臭みもない。その濃厚で複雑な出汁だけがたっぷりと出ている。調味料は塩だけ、あとは野菜だけで煮込んだとは思えぬほど豊かな味だった。
それから柔らかくなった肉を口に入れる。ほろりとほどけ、たっぷりと旨味がスープに溶けたあとでもなお、まだ肉に味が残っていて舌を楽しませる。
「……美味いな」
よく響く声にフィアルカが声を上げると、ラピスの微笑があった。食事前の祈りはしないが、匙は人間と変わらぬほどよく使う。形の良い唇を赤い舌が舐めた。
美味であることは、自分の舌で間違いなくわかっていた。だが嘘偽りを口にすることのないラピスに言われると、安堵に似た嬉しさが広がった。
フィアルカはフォークに持ち替え、グリフィンの肉を取った。一口大に切ったそれを、口に入れる。香ばしい匂いが鼻腔いっぱいに広がり、少し噛んだだけでたっぷりとした肉汁が滲んできた。
コカトリスの肉よりも味が濃い。
魔物の脅威度からすればコカトリスよりもグリフィンのほうが上で、その肉に含まれる毒素の濃度も違う。
毒が濃ければ濃いほど、豊かな味わいを持つ。
「……これで終いか?」
不満げな声に目をあげると、ラピスの皿はすっかり空になっていた。
フィアルカは少し笑いたくなるような、だがあまりに早い完食に眉をひそめた。
「食べるの早いよ、ラピス。もっと味わって」
「お前に言われるまでもなく味わった。だがそれにしたところで量が少なすぎる」
「……グリフィンとコカトリスの肉はこれしかなかったもの」
もとが巨狼であり、人に擬しても長身の精悍な男であるラピスからしたら、分量として物足りないのはフィアルカにもわかった。
常であれば、この三倍の量はつくる。だが希少な食材を使うとなるとそうもいかない。
空になった皿を横にのけ、ラピスはさもつまらなさそうに頬杖をつく。
フィアルカは、決して多くはない自分のスープも肉も平らげた。
匙を置くと同時、ラピスが言った。
「これからどうする」
当然の問い。だがフィアルカはしばし言葉に詰まった。考え、決断しなければならないことだったが、ただただ衝撃と千々に乱れた感情とで呆然としていた。
――追放。
明日までにはこの領地を出て行かねばならない。