婚約破棄も追放もされた元聖女ですが、料理で人助けができるようです1

 ちくしょう、とフィアルカは心の中で精一杯罵った。

 罵りながら、すみれ色の目の奥に刺されたような痛みを感じ、次から次へと涙をこぼした。そのたび、手にしていたナイフをいったん置いて、布巾で拭った。新鮮な玉葱を切ったときとは違う、ただただ後から後から溢れてくる涙だった。

 こんなときに“調理”をするものではない。
 でも、ただじっとしていることなどできなかった。悔しくて腹立たしくて耐えられなかった。

(……あんな男、こちらから願い下げだわ)

 この二日で、何百と言い聞かせたその言葉をまた胸の内で繰り返す。
 それに――これははなむけなのだ。これから、この地を出て行くと決めた自分への。

『お前には失望した。料理人としては矜持があると思っていたが……やはり下賤は下賤か』

 婚約者であった男の冷たい声と眼差しが脳裏によぎり、頭をかきむしりたくなった。
 ――フィアルカが必死につかんだ幸せな未来は、ほんの二日前、そうやって唐突に失われたのだった。

 あの男は――自分の婚約者だった男は、結局自分を信じてくれなかったのだ。聖女としてはほとんど落第者な自分でも、必死に努力したところを、彼は認めてくれたと思っていたのに。

 溢れてくる涙を拭い、またナイフを握って“それ”を切る。
 両手を少しはみ出るくらいの大きさの肉塊。冷暗所でずっと保存してあった、とっておきの食材。
 グリフィンのモモ肉――拳ほどの大きさで、金塊十数個分をもって取引されるものだ。

 慎重に、一口大に切っていく。そこへ、アレボル水晶洞窟で採掘した水晶岩塩と、遠方から運ばれてきた香り豊かなコショウを振る。コショウの香りは素晴らしく、鼻腔に届いた一瞬、陰鬱さを和らげてくれる。

 切り終えたモモ肉を、平鍋にかけた。脂はやはりグリフィンのものだ。
 その隣で、深い鍋の中では既に橙色も鮮やかなざく切りのニンジン、タマネギ、ジャガイモ、こちらにはコカトリスの肉を放り込んで一通り煮込んであった。

 火に熱されて香ばしい肉の香りをたてはじめる鍋と、弱火で煮込まれ続ける深鍋を、フィアルカはひたすらに見つめる。

 いい加減泣き止め、と自分に言い聞かせ、涙の残りを拭った。どれだけ泣いても、結果は変わらない。
 婚約は破棄されたし、職は失ったし、名誉も失った。

 焼き加減を見ながら、平鍋の中の肉をひっくり返す。貴重な肉で、焼き加減が何より重要だった。肉の焼ける香ばしい匂いは、どんなに耐えがたい悲しみや苦しみを抱えても空腹を呼び起こしてくる。

 やがて肉が焼き上がり、テーブルの上の皿に手早く移した。仕上げに香草を少し散らそうかと思ったが、既にコショウを使っているし、ラピスの鼻にはくどいと感じられるかもと考えてやめた。

 小屋中に芳香が満ちている。焼いた肉の大皿は真ん中に、それを挟むようにして、スープと匙の皿は向き合う形で二つ。
 この香りはとっくに、ラピスの鋭敏な鼻に届いているだろう。

 ――彼を呼ぶ前に、このひどい泣き顔をなんとかしておかなければ。
 フィアルカはできるかぎり涙のあとを隠し、小屋の外に出ようと扉に手をかけた。開けるとすぐに、呼ぼうとしていたものの姿を見つけた。

 ほぼ同じ目線の高さにある獣の双眸。細長く突き出た鼻先。鋭い牙が並ぶ口は閉ざされている。
 吸い込まれそうな藍色の光彩に、かすかな金の斑点が散った大きな瞳――名の由来をあらわす美しい双眸。

 その深い藍色を引き立てるかのように、しなやかな筋肉を帯びた四肢をした巨大な獣は、全身を灰色の毛で覆っていた。日の光を浴びてときに銀色に見える毛は、磨き抜かれた鋼のような美しさを湛えている。それでいながら、手触りは絹のようになめらかで温かいことをフィアルカは知っていた。

 藍色の瞳に灰色毛の巨大な狼――ラピスは、何か物言いたげな顔でフィアルカを見つめていた。

「……その体じゃ食べられないわ。小さく・・・なって」

 フィアルカは精一杯平静を装って言ったが、少し鼻が詰まったような声になった。

 灰色の巨狼はどこか不服といった様子で低く喉を鳴らしたかと思うと、すぐにその全身が淡い光に包まれた。一瞬強烈な光が閃いてその中に狼の姿が消え、光がおさまるころには長身の男がそこに立っていた。

 肩より長い髪は狼と同じ鋼色で、逆立った獣毛を思わせるような乱雑なはね方をしているが、それが精悍さを際立たせている。見とれるほど真っ直ぐで高い鼻筋や薄めの唇もどこか狼の面影があったし、その両眼はまるきり獣のときと同じ、深い藍色に星々のような金の斑点が散っている。

 男の手が、ふいにフィアルカの頬に伸びた。

「泣いていたのか?」

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