フォシアは再び、部屋に閉じこもる時間が長くなった。気分転換にと友人のもとへ出かけて、姉の話題で抗いがたく心を乱されてから、自分を見失ったかのようだった。
どうしたらこんな割り切れない自分と決別できるのかがわからなかった。
使用人が、困惑した様子で部屋の扉をたたいたときも、まだ物思いに耽っていた。
「――グレイ・ジョーンズ様が、よろしければお会いになりたいと仰っております」
思わぬ言葉に、フォシアはようやく現実に戻った。そして体を強ばった。
――あのグレイが、自分に会いたいなどと。
前回の会話を思い出すと、何かあるとしか思えない。あるいはアイザックの一件で進展があったのか。
「緊急の用事ではないから、無理にとは……と仰っておりまして」
フォシアの考えを先読みしたかのように、使用人は付け加えた。フォシアの困惑はまた少し増した。
(個人的に会いたいということ?)
それこそ理由がわからない。否、また前回同様の会話にでもなるのではないか。
いま、それに耐えるほどの余裕はない。
「……体調が優れないからとお断りしてちょうだい」
忠実な使用人は余計な口を挟まず、畏まりました、とだけ答えた。
その後も、フォシアは漫然と時間を過ごした。
だがすべてが同じであったわけではなかった。
ただ一つ――グレイの反応が変化していた。
会いたいという申し出をフォシアが一度断ってからも、二度、三度と同様の申し出があった。決して押し迫るようなものではなかったが、何度も断りの返事を伝えるのは、使用人のほうがばつが悪いという様子だった。
くわえて、両親のほうが既にグレイを信用しているようだから余計に断りにくいということらしかった。
両親とて見知らぬ年頃の青年が出入りすることにはじめは不安げな様子であったのに、いまとなっては何も感じていないようだった。あのヴィートに紹介されたから――というだけでなく、グレイの礼儀正しさに絆されたのかもしれない。
つまり、グレイの茶会や観劇の誘いを断るのも受けるのもフォシアの意思一つという状態だった。
当のグレイが、何度断られても気分を害した様子を見せないのが、ますます申し訳なく――と使用人は言う。
そう聞けば、フォシアのほうもいったいなぜグレイがそんなことをするのか、不安と疑念のまじった思いが強くなる。
しかしグレイの意図を確かめる機会は、思いもよらぬ形で現れた。
――あとから思えば、お嬢様、と扉越しに呼びかけてきた声にかすかな動揺の上擦りがあったことに、気づくべきだったのかもしれない。
いつものようにフォシアは入室の許可を与え、扉が開く。
「どうし……」
フォシアはそう言いかけ、反射的に悲鳴を飲み込んだ。
萎縮する使用人を問答無用で脇に押し、涼やかな目をした貴公子が現れる。
「失礼、フォシア嬢。無礼だとはわかっていますが、こうでもしなければお会いするのが難しいと判断しましたので」
言葉とは裏腹に、まったく悪びれた様子をみせず、涼やかな顔のグレイ=ジョーンズは言った。
フォシアは体を硬くし、思わず後じさりした。
「な、何のご用ですか……! で、出て行ってください!」
「はい、出て行きます、あなたと一緒に」
グレイは相変わらず表情を変えぬまま言い、フォシアは目を瞠った。
「何を……」
「やはり部屋に閉じこもってばかりではいけません。まず会話も不可能になりますので。では下でお待ちしております。準備はどうぞごゆっくり」
グレイはそう言うと、皮肉と思えるほど優雅に一礼してあっさり去っていった。
残されたフォシアはただ呆然と立ち尽くす。
(どういう、つもりなの……?)
強引に部屋に来て、言いたいことを一方的に口にして去って行った。フォシアの反応など一切気にしていない。
横暴とさえ言える行動なのに、あの冷ややかな態度のせいなのか――不思議なほど、乱暴に感じられない。
フォシアは混乱した。かつてこんな態度に出る異性はいなかった。
「いかがいたしましょう……?」
使用人が、不安げにフォシアをうかがって言った。
――フォシア自身も意外に思ったことに、好奇心というものは思いのほか抑えられないらしい。
突拍子もないグレイの誘いに混乱し、呆れながらも、下で待っているなどと言われたせいか、気づけば身支度をしておずおずと階段を下りていってしまっていた。
グレイはすぐにフォシアに気づいた。
「では行きましょう」
そう言って、扉を開けてフォシアを促す。真っ直ぐに見つめる眼差しは、フォシアが共に来ることを疑いもしていない様子だった。
フォシアは半ば呆れ、少し反発を覚えた。自分が応じると確信していたのだろうか。
――けれどなぜか恐怖や不快感はなかった。
用意のいいことに、外には既に馬車が止められていた。
フォシアはグレイの手を借りて馬車に乗った。向かい合わせで座る形になったが、馬車が動き始めても会話らしい会話はない。
居心地の悪さにフォシアが身動ぎし、軽率についてきてしまったことを少し後悔すると、やがて馬車は止まった。
「ここは……?」
「見て頂いたほうが早いですよ」
思わず問うたフォシアに、グレイは皮肉でもなく淡々と答えた。
馬車を降り、手を伸べてくる。フォシアはためらいがちにその手を借りて降り立った。
思わず周囲を見回すと、賑やかな住宅通りから少し離れた土地にあるのか、喧噪はなく、広い邸をぐるりと白い柵が囲み、よく手入れされた色とりどりの花壇と庭園が見えた。何者かの邸宅であるらしかった。
「私の別荘です。つまらない場所ですが、息抜きぐらいにはなります」
敷地内を進みながらグレイが言い、フォシアは虚を衝かれた。
――グレイの別荘。
そこに招かれたことの意味を考える前に、グレイは広い前庭を少し横に逸れた。花のアーチや噴水の中に、白い四阿が見える。
四阿にはテーブルと椅子があり、フォシアはそこへ座るよう促された。
促されるままに腰を下ろすと、向かい側にグレイも座った。どこからともなく現れた執事が、茶器と茶菓子を静かに置いて下がる。
あとには二人だけが取り残される。
フォシアはふいに、自分がグレイという異性と二人きりで、しかもその異性の邸の内に飛び込んでしまっていることに気づいた。
そうするととたんに落ち着かなくなり、居心地なく視線をさまよわせる。グレイはいったいどういうつもりで――。
「庭を見てください」
フォシアをこんな状況に放り込んだ当人が、そんなことを言った。
フォシアは数度、目を瞬かせる。――私を見て、と言われたことはあるが、庭を見ろなどと言われたことはない。
ためらいながらも、素直に周りを見回した。
蝶がひらひらと優雅に視界を横切っていく。
四阿を色とりどりの花が囲み、鮮やかな色彩の絨毯をつくりだしている。だがそこには統一感が感じられた。
方角ごとに色でわけられているのだ、とフォシアは遅れて気づいた。北は黄色、東は橙色、西は緋色、南は紫というように。
色でわけられながらも決して厳格なわけではなく、同じ色でも濃淡が違い、花の形も違う。それが不思議なモザイク模様になっていた。
見事な統一感を持ち、それでいながら主張しすぎることのない花園は、フォシアに不思議な印象をもたらした。
美しさに目を引かれるが、決して見せびらかす意図を感じない。
言うなれば――丁寧に手入れされた、という表現になるだろうか。
「……綺麗です。なんだか、とても……安らぎを感じます」
フォシアは素直な感想を述べた。
「……それはよかった。少しでも息抜きにならなければ、私はあなたを強引に自分の邸に連れ込んだ不埒者になってしまう」
グレイの声に、ほんのわずかに安堵がまじったように聞こえた。
フォシアは驚いて前に顔を戻す。だがグレイはカップを傾け、フォシアと目を合わせない。
(……息抜きのために、わざわざ私をここへ?)
フォシアは驚いた。
目を合わせないまま、グレイは続けた。
「他に適切な場所が思い浮かびませんでした。私も、騒がしい場所はあまり得意ではないので」
ぱちぱち、とフォシアは長い睫毛で瞬く。どうぞ、と茶をすすめられ、フォシアはとりあえずカップを持った。茶は豊かな香りがして、上質な葉のものとわかったが、それを味わう余裕はなかった。
しんとした沈黙が落ちる。
フォシアはますますグレイの意図をはかりかねた。
――口下手なヴィートを除けば、フォシアと相対した異性はほとんどが饒舌で、その内容も外見への賞賛であったり、こちらの興味を惹こうと種々の話題をまくしたてる者が多かった。
フォシア自身、それに慣れてしまったのもあり、自分から何か話題を振るということができない。
気詰まりに感じていると、グレイがかすかに息を吸う音がした。
それから、
「――あなたに、謝罪したいのです」
短く、そう言った。