「吸えよ」
青年は冷ややかに言った。冷たく、青白く光る目が見下ろしている。
ヴィヴィアンは肺を病んだ老人のような息をし、握った両手に必死に力をこめた。だがそれは情けないほど 痙攣し、“飢え”が一瞬ごとに悪化していることを知らしめる。
「い、や……出て、いって!」
激しい拒絶をのせた声は、だがかすれてひび割れた。
――やがて唾液がこみあげ、口内に溜まりはじめる。
かすかな目眩がする。体が細かく震え出す。
青年が一歩、近づく。その気配を、ヴィヴィアンの研ぎ澄まされた神経は感じ取る。
「抗うなよ、聖女様」
軽蔑。暗い笑いを孕んだような声。
顔を見なくても、青年はこちらを蔑み見下ろしているとわかる。
だがヴィヴィアンに怒りはわかない。
喉がひくつく。
青年からとほうもない薫香が漂ってくる。
甘い甘い肌の匂い――体温を帯びた皮膚、その下に流れる熱い血潮を想像する。まるで温められた美酒だ。何よりも紅く、どんな美酒にも真似しえぬ鉄の味。生命の液体。
唾液が口の端からこぼれそうになる。
砕けそうになるほど奥歯を噛み、唇を強く閉ざして耐える。
――出て行って。
見ないで。
近寄らないで。
早く、と腹の底からの叫びは、だが獣のようなうなりに変わっただけだった。
青年の一挙手一投足を逃すまいと、鋭敏になった感覚がすべてそこへ絞られる。ヴィヴィアンの意思とは関係なしに体が反応している。
その聴覚が、衣擦れの音を鮮やかに拾った。
「ほら」
青年が、襟を開いたらしかった。
研ぎ澄まされた嗅覚に、肌の匂いが強くなる。青年が膝を折る。
ヴィヴィアンは、ぎゅっと内臓を引き絞られるような感覚に襲われた。空っぽの体が悲鳴をあげているようだった。
――欲しい。
滑らかな肌に歯を立て、破り、その下に流れる生命の潮をすすりたい。
彼の血は、きっと舌を刺すような熱さで酔わせてくれるだろう。
唾液が嚥下しきれぬほどこみあげてくる。体の震え。目眩。飢えが理性を侵蝕する。
ヴィヴィアンは激しく頭を振った。
「いや……っ!」
立ち上がる力さえないまま、獣のように這いつくばる。
青年がすぐ側で膝を折る。
嘲笑うように、ヴィヴィアンに手を伸ばした。
◆
――彼がやってくるまで、ヴィヴィアンの世界は、閉ざされた平穏の中にあった。
海に囲まれたその王国から、船で二日ほど西進すると小島が見えてくる。
そこはだいぶ以前には閑静な貴人の避暑地などとして使われていたが、五年前に聖女の“療養地”と定められて以来、ほとんど人の訪れぬ土地になった。
いまやそこに住むのは二人だけだ。
かつて貴人の別荘として使われていた館の一つに、その二人は住んでいる。
救国の聖女であった女、その身の回りの世話をする侍女である。
「ヴィヴィアンさまーっ!」
そういって元気よく部屋に飛び込んできたアンナに、館の主であるヴィヴィアンは一瞬だけ目を丸くした。
次に、思わず噴き出してしまった。
アンナは十二歳ほどの少女だが、大きな目と弾けるような明るさのせいか、もっと年下に見える。侍女のお仕着せですら、窮屈だといわんばかりに元気が漲っているようだった。
泥だらけの手に抱えられているものがある。
「見てください! きれいな白百合を見つけました!」
「あら、本当。……アンナ、でも根まで掘り出して土ごと持ってくるなんて念を入れすぎじゃない?」
「そうですか!? 百合はいざとなったら根も食べられますし、手折ってくるのはもったいないと思って!」
アンナは大真面目で、顔には得意げな表情が浮かんでいる。
ヴィヴィアンはまた笑った。
「庭に移し替えてきますー!!」
アンナはそう行って、再び元気よく去っていった。
ヴィヴィアンはその快活で小さな背を優しく見守った。
ここには庭師はいない。ヴィヴィアン一人の身の回りの世話や館の手入れはアンナ一人が行う。
ヴィヴィアンもできることはすべて一人で行っているが、それでもアンナの仕事は少なくない。
しかしアンナはくるくるとよく働き、不満を口にしなかった。
何より、これまで交代でやってきたどの侍女たちよりも、ヴィヴィアンに慣れるのが早かった。
怖れ、あるいは蔑み、極端に距離を置こうとする者が多かった中、アンナの気さくさと素直な明るさはヴィヴィアンに安らぎをもたらした。
ヴィヴィアンは立ち上がると、窓際に立った。
窓ガラスに、静かな女の顔が映っていた。
細い茶色の眉の下の、杏子色の目。少し丸めの鼻。紅をさすこともなくなった唇。明るい茶色の髪は五年の間に伸びて、背の真ん中に達そうとしている。
ヴィヴィアンは今年で二十四になる。
ここに移ってきた五年前と比べ、少し痩せたかもしれなかった。移ってきたばかりのころは異常な速さで体重が落ち、骨と皮だけになって目ばかりがぎらついていたが、それから少しずつ回復していった。
いまは平凡な顔だ。
平凡な――いかなる希望も未来も見ていない顔。
半透明の自分の顔の向こうに、海が見えた。
この館は丘の上にあったから、眺めだけはいい。
――海のはるか向こうには、ヴィヴィアンがかつてすべてを捧げた国と、愛していた人がある。
『ヴィヴィ……ヴィヴィアン。どうか私を許してくれ』
海を眺めると、しばしばそんな声を思い出す。
彼は顔を歪め、苦痛を露わにしていた。かすかな寂しさが胸にわく。
(……そういう、定めだったのよ)
ヴィヴィアンは乾いた声を胸中に響かせる。
運命。
その陳腐な言葉でしか片付けられない。
ヴィヴィアンが愛し、将来を誓ったジュリアスはこの国の王子で、五年前の戦で思わぬ形で彼に王位継承権が回ってきたときも、自分と彼にとっては不運でしかなかった。
――あるいは、自分があのとき違う選択をしていたら。
けれどやはり、禁忌を犯した女が王子の妃になることなど無理だっただろう。
自分が手を出したものは、少なくない代償を支払わなければならないものだったのだ。
五年前に感じた絶望と苦痛は、時に洗い流されている。あのとき真にできていなかった覚悟や諦めを、時間が身につけさせてくれた。
心の古傷をなぞるようにヴィヴィアンが回想していると、ふいに喉に鋭い痛みを感じた。
強い渇き。
喉が鳴り、唾液がこみあげる。
ヴィヴィアンは顔を歪めて唇を引き結び、一度奥歯を噛んだ。
この感覚がやってくるたびに、強烈な嫌悪感が胸を焼く。
いかなる水でも、美酒でも果汁でも癒えることのない飢え。
窓から離れ、グラスを持って部屋を出た。
アンナの姿がないことを確認して、地下の倉へと向かう。
暗く冷たい階段を降りてゆく。倉の中は更なる冷気で満たされていた。
等間隔でもうけられた棚には、かつて整然とワインがおさめられていたはずだ。
いまも、棚にはいくつかのボトルが静かに収められている。
――だがその中身は美酒などではなかった。
ヴィヴィアンはもっとも近くの棚からボトルをつかむと、一瞬ためらってから詮を抜いた。
独特の臭気が鼻をつく。
しかしいまの自分にはかぐわしい芳香にすら感じられ、また嫌悪が募る。
ボトルの中身を、持参したグラスに注ぐ。
粘性を帯びた暗い赤がグラスにたまってゆく。一瞬見れば葡萄酒と見間違う、だが酒よりももっと重く濃い液体。
グラス一杯に注いだあと、ヴィヴィアンは一瞬ためらった。
――これを口にすることは、自分が人間でないと認めるようなものだ。
たとえこれが人の体から得たものではなく、動物のものだとしても。
グラスのふちに唇をつけると、一気に干した。
気持ちとは裏腹に、生命の液体を流し込まれた体はかすかにざわめき、細胞の一つ一つが不平の声を小さくしてゆく。
癒しがたかった喉の渇きが和らぐ。空腹感は去らないが、いまはこれだけでも耐えられるほどになる。
空のグラスを手に、ヴィヴィアンはその場に座り込んだ。
渇きは鎮まったかわりに、ひどく惨めな気持ちになった。
いまは渇きを誤魔化せても、一日一日とまた酷くなる。次の満月を越すまでは、飢えを誤魔化す日々でしかない。
――たとえこんな浅ましいことをしても、それで飢えがおさまるのならいい。
本国から送られてくるこの食糧品は、家畜からとったものだ。それは他の人間が肉を食べる行為と同じということもできる。
だが、これでは飢えをおさめることはできないのだ。
――人のものでなければ。
「……っ!」
ヴィヴィアンは衝動的にグラスを叩きつけた。悲鳴のような音をたて、グラスは砕け散る。
そうして、顔を覆った。
やがて満月を迎えると、館には主一人になった。
常に侍っていた快活な侍女も、その日ばかりは近づくことさえ許されなかった。
侍女は前日から、迎えにきた船へ一時的に退避させられていた。
美酒ではないものをおさめた倉は、ボトルのすべてが空になっていた。
ただ一人しかいない館――他に住人もいない小さな島に、おそろしげなうめきが響く。
館の外にまで、ものが壊され破壊される音が断続的に響いた。