その伯爵家には二人の姉妹がいる。
たいそう噂になっている姉妹である。
なぜよく噂になるかというと、きわめて特徴的な姉妹だからであった。
姉の名はグリシーヌ。妹の名はロジエという。
二人はきわめて対照的で、曰く――グリシーヌは“悪魔のような”姉であり、ロジエは“天使のような”妹であるという。
天使のような妹は社交界の華としてもてはやされた。
一方、姉のほうは決して醜くはなかったが、華と呼べるほどではない。
すると姉は妹に嫉妬して、妹の崇拝者すべてに恨むような眼差しを投げかけるようになったという。
だからこのたび、ロジエが貴公子の中の貴公子と呼ばれるかのオリヴァー卿と婚約するとの噂がたったとき、グリシーヌは嫉妬のあまり露骨な妨害工作に出たのだ――。
――そう、噂されたのである。
◆
「姉様は誤解されやすいのよね」
澄んだベルを思わせるような声で、伯爵家の次女・ロジエは言った。
透き通った陽射しが、ベランダでのんびりとお茶を楽しむ二人の令嬢を照らしている。
ロジエは“薔薇色の天使”の異名にふさわしく、花の女王を思わせる艶やかな赤毛であり、光があたるときらきらと金色の輝きを帯びる。
それでいて目は優しげな榛色で、上品な印象を与えた。頬はうっすらと色づき、鼻は高く、形の良い唇は紅を塗らずとも赤い。
肌は抜けるような白さで、簡素なドレスとショールを羽織っていても、その豊かな胸や悩ましげな腰つき、長く細い指には目を吸い込むような艶めかしさがある。
テーブルを挟み、その薔薇色の天使の前に座るのは、赤というよりは黒に近い暗い髪色の娘だった。
その目は、やがて明けゆく夜と朝の狭間を思わせるようなあわい紫で、温かな陽射しにやや反抗している。つり目気味なせいでいっそう冷ややかな印象になった。
色白だが、妹のような血色感がないためか、どこかつくりものめいた印象を与える。体の作りも妹とは真逆で、痩せぎすの娘だった。
夜と冬を思わせる容姿の娘――伯爵家長女・グリシーヌ。口さがないものは、天使の妹にちなんで“悪魔の姉”などと呼ぶ。
その細く白い指が、自分の前に置かれたティーカップをなんとはなしにもてあそぶ。
「まあ……、私はロジーのように美しくはないのですもの。それにその……公の場で正しく振る舞えないから仕方がないわ」
「姉様は着飾ることをしないだけじゃない。それにちょっと、他人と話すのが苦手というだけでしょう。まあ、言いたい者には言わせておけばいいけれど」
ロジエは赤い唇を尖らせた。幼い頃から変わらぬその仕草に、グリシーヌは頬を緩ませた。
「知っている? ロジー。世間では、私とあなたは不仲だということになっているらしいわ」
「バカね。大バカものだわ。その発言だけで、私と姉様をまともに見たことがないと言っているようなものよ」
ロジエが鼻で笑って――外では決して見せぬ表情だ――まったくね、とグリシーヌは笑った。
グリシーヌは今年で十九、ロジエは十六になる。ともに未婚であった。――だが、もうすぐそうでなくなる。
抗いがたい寂しさが、ひたひたとグリシーヌの胸に迫った。
不仲――噂とはなんといい加減なものだろうと、本当に思う。
「……どうしたの、姉様」
カップを持ち上げながら、美しい妹は言う。悲しげな顔をしているわ、と。
グリシーヌは指で自分の頬を突いた。そんなに表情に出てしまっていたのだろうか。
「ふふ。寂しい? 私が婚約したから」
天使のような妹は悪戯っぽく笑った。これも他の者には見せない、ごく自然で愛らしい微笑だった。
「それはそうよ」
グリシーヌは素直に言って、なんとか笑みの形に頬を歪めた。
――ロジエの美しさと年齢からすれば、婚約自体はなにも不思議なことではない。むしろ当然と言えるだろう。
公の場でうまく立ち回れず、睨んでいるとか(うまく笑えない)、傲慢な応対である(うまく話せず素っ気なくなってしまう)などと不評の姉とは違うのだ。
ただ、ずっと一緒に育ってきた仲の良い妹と離れなければならなくなるという事実が胸に堪えた。
気の良い乳母に一緒に育てられ、やや気むずかしい女家庭教師にともに教育を受け、両親よりも乳母よりも、姉妹はずっと一緒に過ごしたのである。
そして寂しさ以外に、グリシーヌには一抹の不安があった。
「……本当にいいの、ロジー? いいえ、オリヴァー卿は素晴らしい相手で文句のつけようもないとは思うけれど……」
グリシーヌはそっと、妹の麗しい顔をうかがう。優雅にティーカップを傾けるその姿は、いつもと同じく、淑女の模範のような姿だった。
カップをソーサーに戻し、ロジエは静かに姉を見た。
「……大丈夫よ、姉様。オリヴァー卿とは少し話して……そうね、うん。他の男よりましだと思ったの。意外に話がわかる人だったわ。だから、この人でいいかなって思ったの」
「話が、わかる……?」
ええ、とロジエはうなずく。天使の異名をとり、その静かでたおやかな笑みで男性をのきなみ崇拝者に変えてしまう少女が、いまはだいぶ大人びた表情をしていた。
――ロジエの心を本当に知る者は少ない、とグリシーヌは思う。
ロジエは優しく情け深く、礼儀正しい少女だ。
だが地上に舞い降りた天使だとか、傾国の美姫だとかは少々過ぎた賞賛だ。周りから勝手に期待される理想像は重すぎる。
「私は別に結婚したいわけではない。けれど相手にも自分にも不実な態度で接するようなことはしたくない……。オリヴァー卿は一応、その話を最後まで聞いてくれたわ。理解してくれたかどうかまではわからないけれど、粗野な罵倒や稚拙な論理まがいで反論しなかっただけでだいぶましだわ」
品の良い唇から、想像もしえぬ鋭い言葉が飛び出す。
グリシーヌは静かにそれを聞き、うなずいた。
オリヴァー卿は評判以上の素晴らしい男性なのかもしれない。
大半の男性は、ロジエの本音を聞いて仰天するに違いない。あるいは怒り出す。
美しい薔薇には棘がある――だがロジエの場合は、棘の部分こそが本質なのかもしれないとグリシーヌは思う。鋭く硬質で、不器用だが純粋な。
『姉様、どうしてわたくしたちは結婚しなければならないの?』
幼い頃、絵画から抜け出してきたように愛らしい妹は何度もそう言った。
大きな丸い瞳で見上げられるたび、三歳ばかり年上であっただけの幼い自分はどう答えていただろう。グリシーヌは思い出せない。
たぶん、ロジエの問いの意味すらわかっていなかったのだ。
――長じてからようやく、その意味を理解できた。
ロジエは、薔薇色の天使とか社交界の華とか散々ほめそやされ、伯爵家令嬢という相応な身分もあり、あらゆる男性を夢中にさせた。数多の異性に結婚を熱望される身になっても――それは本人の望みではまったくなかったのだ。
ロジエはいまだ恋愛を知らない。
男性嫌いというわけではないようだが、昔から、恋愛小説や悲恋劇などには興味もないし共感もできないという。
だから結婚というものに夢を見たこともなければ、自分に必要なものとも思わなかったという。
――無論、貴族の娘ともなれば結婚はほとんど事業だ。それも唯一の。
恋愛によって結ばれる者のほうが少ないだろうし、恋愛によってではなくそれしか自立の道がないためにそうするのである。
だが淑女の手がけることのできる唯一の大事業が、結婚することのみである――淑女は結婚しなければならないということに、ロジエは窮屈さを感じてきた。
それは、グリシーヌにも少しは理解できることだった。
しかしグリシーヌにはまだ、平凡な感覚がある。
自分の不器量ゆえにいまだに独身だけれど、漠然と結婚への憧れはある。
一方でどんな相手でも選べるロジエは、望んでもいないのに求婚者に群がられ、当然結婚するものと思われている。
その美しさがかえって彼女自身の枷になっているのではないかとグリシーヌには思えてしまう。
だから――。
(……だから、オリヴァー卿がロジーを少しでも理解してくれたらいい)
美しい淑女として妹を型にあてはめるのではなく、結婚は仕方ないと諦め、社会と必死に折り合いをつけようとしている妹自身を。
それに夢のような貴公子と呼ばれる彼ならきっと、他の誰より妹にふさわしいはずだ。
淡く金の輝きを帯びる妹の美しい赤毛に、グリシーヌはほとんど祈るように思った。
――その祈りが失望と怒りに変わってしまうなど、思いもしなかったのだ。