「リュフェスくーん!」
「ぅごっ」
どん、と後ろから勢いよくぶつかられ、リュフェスは危うく前のめりになった。驚いた小鳥たちが、羽音をたてて飛び立っていく。
むにゅ、とやけに柔らかく妙な重さを持つものを背中にあてられる。
「うふふ。哀愁漂う背中ねえ」
「カルメル、ちょ、重いんですががががが」
「まあ! レディに向かって重いだなんて!」
必死に身を離そうとすると、余計にぐいぐいと体を当ててくる。
リュフェスは焦った。――いやこれは本能的な反応であって、他意はない。
なにせ、カルメルは明らかにこんな田舎の村には場違いなほどの美女なのだ。
妖艶な紫色の長い髪。圧倒的に盛り上がった二つの丘、ぎゅっとくびれた腰から、肉感的な腿と膝、くるぶし。滑らかで背中に響くような声も、なにか魔力を帯びているとしか思えない。
若く瑞々しく潔癖なところのあるジャンヌと比べると、カルメルはほぼすべての男がふらふらと吸い寄せられてしまうような成熟した魅力があった。
「寂しい? それなら私が養ってあげる。リュフェス君を飼ってあげる。だから私のペットになって?」
「いやです無理ですむしろ俺にイモ買え」
「またその答え! どうしてなの!」
「むしろよく飽きずに毎回それ言うな!? ジャンヌの教育上よろしくないことはしない!!」
身をよじり、リュフェスはなんとかカルメルの物理的及び精神的誘惑を振り払った。
「純情なおっさんをからかうのはやめろ! カルメルなら星の数ほど相手を見つけられるだろ!」
「あら、星がいくつあっても月は一つだけだもの」
「……俺、月なの? 痩せたり肥ったりするの? 月一で完全に姿消されるの? つら……」
「もう、すぐそうやってはぐらかす! ふふ、そういうところも可愛いけどねえ」
いたずらな笑みを浮かべ、唇を尖らせる美女を見る。思わず唇に目が吸い寄せられるくらい、艶艶としていてほんのわずかな厚みに色気がある。
しかも垂れ目気味で、目元に小さな黒子がぽつんとあるのが妙に可愛らしい。
「何かあればすぐジャンヌの教育上どうとかって、そればっかりなんだから」
そりゃ当たり前――とリュフェスは答えようとして、ふと森に振り返った。家畜たちが少し離れすぎている。
「おーい、離れすぎだー。戻ってこーい」
リュフェスが一言そう声がけすると、白と桃色の集団はくるりと反転してのんびりとリュフェスのほうに向かってきた。
ほう、とカルメルが溜め息をつくのが聞こえた。
「いつ見ても地味に壮観だわ……」
「地味に壮観ってなんだ」
「うふふ。のどかな風景なのに、よく考えると驚きじゃない。あなた、種類の違う家畜の集団を、牧羊犬でもないのに雑な声がけ一つで意のままにしてるのよ」
「……《獣使い》は動物に好かれやすいんだよ。元とはいえ」
「それだけなのかしら?」
カルメルが意味ありげに微笑む。
なんだよ、と言い返しながらリュフェスは少し訝った。――他の《獣使い》はそうではなかったのだろうか。リュフェスは自分以外の《獣使い》と交流をもったことがないからわからなかった。
「……本当にもったいないわね」
皮肉でもなんでもなく、カルメルは悩ましげな溜め息とともに心底惜しいというような声色で言った。
リュフェスは苦く笑った。お前は天才だ――かつてそう言ったジャックの言葉を思い出しながら。
「二七のおっさんに言われてもなあ」
「あら。リュフェス君はもっと若く見えるわよ」
「若く見えたって、おっさんはおっさんだし」
リュフェスはしみじみと言った。
迷宮探索者は、十代から二十代序盤までが大半である。剣士や魔術師等といった異能が、そのあたりで上限に達するからだ。
探索者をやめたあとは、実績をもとにみな指導役に転身する。次代の探索者を育てるのだ。
――その転身に失敗したものは、新米の探索者の成果物を奪う追い剥ぎや、異能を持たない一般人を襲う盗賊になることも少なくない。
「……苦労してるわね、リュフェス君」
カルメルは、包み込むような眼差しでリュフェスを見つめた。
リュフェスはなんともむずがゆい気持ちになりながら、身動ぐ。特に最近は、苦労などしていない。ジャンヌを引き取った直後の数年に比べれば、いまはまったく気楽である。
――もし、あのときジャンヌを引き取っていなかったら。
探索者として最盛期のあの時間を、そのまま過ごせていたら。
そんな思いは数え切れないほど頭をよぎった。だが、誰にも言ったことはない。
(すぎたことを考えても仕方ない)
リュフェスは自分にそう言い聞かせ、屈んで足元の白い犬を撫でた。うっとりするような柔らかい手触りに、心が落ち着きを取り戻す。
「うふふ。苦労人な子って見ていて堪らなくなっちゃうのよね。ジャンヌちゃんにはああ言われたけど、リュフェス君を手籠めにしちゃおうかしら」
「だだ漏れたらいかんやつが漏れてるぞしかも本人の前で! ジャンヌに何を言われたんだ?」
「それは秘密。ね、リュフェス君。もうがんばりすぎるほどがんばったんだから私に甘えてみない? でろでろに甘やかして溶かしてあげる」
「いやっす無理っすこわいっす。スライムなりたくないっす」
「そこはときめくところでしょ!?」
んもう、とカルメルはくびれた腰に手をあてる。わざとなのかそうでないのか、実りに実った胸が強調され、リュフェスは目を背けて足元の犬を両手でわしゃわしゃと撫で回した。
カルメルのからかい好きにも困ったものだと思う。決して悪女ではない。むしろジャンヌを育てる上で大いに助けてもらった。
――だからこそ、カルメルのような美女に、自分が釣り合うわけがない。
カルメルならそれこそ貴族との結婚だって狙えるのだ。おそらく年齢にして三〇をこえていると思われるが、それこそ魔女のような美しさと妖艶さを保っている。それが魔術によるものかどうかはわからないが。
めええ、と羊がのんびりとした声をあげている。
(……そろそろ、隠居かな)
ジャンヌもひとり立ちできそうなのだ。あとは――もうのんびりと豚や羊たちを見守りながら、田舎でのんびり過ごす。平和でのどかな生活。
(これでいいんだ)
リュフェスは自分に言い聞かせる。探索者も《獣使い》も、もう関係ない。
――これで、いいんだ。