婚約破棄された令嬢は、灰の貴公子に救われる17

 一連の出来事の終結を宣言された日以来、グレイはフォシアのもとを訪れなくなった。
 だがそれは、元の生活に戻ったというだけで、おかしなことではない。
 むしろ用がなければ訪れないのは普通の状態だと言えるはずだった。

 晴れてアイザックの魔の手を退け、自由に出歩きができる身になっても、フォシアは部屋で塞ぎ込む日々に逆戻りしていた。
 自分がこうやって塞ぎ込んでいるせいで、まだルキアがヴィートの元に行けないのだとわかっていても、どうしようもなく気が塞いだ。

(グレイさんには……迷惑……だったのかしら……)

 彼の最後の態度を思い出すと、急に足元が崩れたような不安に駆られる。
 だが考えてみれば当然かもしれなかった。――グレイはヴィートに頼まれて、この厄介な事態に巻き込まれたのだ。しかも多大なる貢献をしてくれた。

 心の底から感謝しているし恩も感じているが、グレイにとってどれほどの見返りがあったのかはわからない。むしろひたすら迷惑をかけていただけなのかもしれない。

 グレイの少し不器用な優しさを――ただ勘違いしてしまっていたのかもしれない。

 そう思うと、頭上に厚い雲がさしたように視界が暗く、胸が重くなる――。

「フォシア? 入ってもいい?」

 姉の声に、フォシアははっと顔を上げた。
 すぐに扉が開かれ、自ら茶器を手にしたルキアが立っていた。
 テーブルを挟み、二人分のカップを置き、中央に茶菓子を置く。

「……ここのところずっと元気がないわ。どうしたの?」

 これまでずっとそうだったように、真摯に案じてくれる声がフォシアの胸にじんと染みた。すぐには答えられず、それでも急かすことなくルキアは待っている。

 やがて、少しためらいながらフォシアは切り出した。

「あの……、グレイさんは、迷惑だったのかしらと思って」

 そう言うと、ルキアの目が見開かれた。

「迷惑?」
「そ、そうなの。だって、今回の件で迷惑をたくさんかけたのは事実だし……せ、先日も、早く帰りたいというようなご様子だったから」

 目を丸くしながら、ルキアはぱちぱちと数度瞬いた。それから少し考え込むように首を少し傾げ、

「……迷惑といっても、フォシアのせいじゃないでしょう。アイザックとエイブラにすべての非があるわ」
「でも、」
「フォシアは悪くないわ」

 ルキアははっきりと言い切った。今回の一件に関して、姉の主張は頑なといえるほどに一貫していた。――だからこそ、一時は自分の身を呈してまで事態を収束させようとしてくれたのだ。

 そんな姉の態度にくすぐられるような心地よさを覚えつつも、フォシアの気分は晴れなかった。
 ルキアもまたそれを察してか、言葉を続けた。

「グレイさんのことをよく知っているというわけではないけれど……本心ではどうでもよかったとか、渋々ながら協力してやったというようなことを考える人ではない気がするわ。少し素っ気ないところはあっても、誠実な方だと思うし」

 フォシアはうなずく。胸のうちが少しだけ波打ったのは、ルキアのほうがグレイを理解している――そんなふうに思ってしまったからだ。

「……グレイさんの態度が気にかかって落ち込んでいたの?」

 ルキアが数度目を瞬かせる。
 フォシアは少しためらったあと、うなずいた。

「ジョーンズさんがどう思っているのか、何を考えているのか、わからなくて……。も、もし不快に思われたり、疎ましく思われていたら……」

 言いながら、フォシアの声はかすかに揺れた。
 ――グレイに嫌われていたら。

 そう思うと、動けなくなるほど怖かった。知人と思っていた令嬢に裏切られてアイザックと引き合わされたときでさえ、こんなおそれは覚えなかったというのに。

 ルキアは言葉を詰まらせたあと、束の間沈黙した。真剣に考えてくれているときの、いつものくせだった。やがて考えながら、言葉を選びながら言った。

「……あのね。私は、ジョーンズさんがフォシアを嫌っているなんてことはないと思うわ。でも、私はジョーンズさん自身ではないから、フォシアを安心させられないこともわかる」

 フォシアは知らず、すがるようにルキアを見つめていた。かつてない漠然とした迷路のような不安を、姉なら解き明かしてくれるのではないかと期待した。

 ルキアは、少しはにかんで、照れたような笑い顔をした。

「あのね、言わなければわからない・・・・・・・・・・・のよ。ジョーンズさんが何を思っているか、結局はジョーンズさんから直接聞かないとわからない。フォシアがいま不安に思っているのなら、言葉にして伝えなくちゃ」
「! で、でも……っ」

 ――そんなことできない、とフォシアはとっさに反論しようとした。
 そんなことをしたら。

「め、迷惑かもしれないし……怖いもの」

 知らず、声が小さくなった。自分でも子供のような駄々をこねていると思った。
 だがルキアは呆れたりはせず、むしろいっそう優しい眼差しになった。

「ええ、怖いわよね。聞くのが怖くて、でも聞かないまま自分一人で考えているとどんどん底に落ちていく……そうしてもっと怖くなる。もっと聞けなくなってしまう」

 フォシアははっと息を飲んだ。
 姉の言葉は、いつも以上に胸の奥深いところに染みた。――まるで姉もまた、同じ思いをしたことがあるとでもいうように。

「ジョーンズさんももしかしたら同じように悩んでいたり、あるいは誤解があったりするかもしれないでしょう」
「そう……なのかしら」
「ありえないことではないはずよ。それはジョーンズさんにしかわからないことだけれど。前に進むためには、自分の言葉で聞いてしまったほうがいいのは確かだわ」

 柔らかいルキアの声が、フォシアの心をそっと押した。不安に動けなくなっていた足に、少し力が戻る。

「……そうね。きっとルキアの言う通りだわ。私……グレイさんに、聞いてみる」

 ええ、とルキアは微笑みながらうなずいてくれた。
 少し体が軽くなったように感じて、フォシアは立ち上がった。

 この勢いをかりて、すぐにグレイに面会を申し込むつもりだった。使用人を呼び、グレイに言伝を頼もうとしたとき、少し慌てたような足音が聞こえた。
 ふだんは落ち着いている侍女が、急いだ様子で部屋にやってくる。そしてフォシアの顔を見るなり言った。

「いま、ヴィート様とグレイ様のお二人がいらっしゃいまして、ぜひフォシア様にお会いしたいと……!」

 まさに思い描いていた相手の訪問に、フォシアはこぼれんばかりに目を見開いた。

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