ルキアが後からついてきてくれるのを感じながら、フォシアは急いた足取りで玄関に向かった。
二人の青年の姿はすぐに見つかる。
「やあルキア、フォシア」
ヴィートが、フォシアとルキアを認めて笑った。その傍らのグレイは一瞬目をあげて目礼したあと、また逸らしてしまった。
フォシアはたちまち自分の勢いがしおれてしまうのを感じた。
ヴィートが片眉をあげてグレイを横目で見、肘で友人を軽く突く。
勢いがなくなってしまう前にと、フォシアは聞いた。
「あの……ご用は、なんでしょう。また何か、問題が?」
「ああいや、そういうことじゃないんだ。心配しないでくれ。……な、グレイ」
ヴィートは苦笑し、それからまた物言いたげな目をグレイに向けた。
「言わなきゃわからない」
「……わかってる」
苦々しげにグレイは答える。
フォシアはにわかに困惑する。一体何があるというのか――。
だがグレイはほんのわずかにためらい、そしてそれを振り払うようにフォシアに目を向けた。
「お話ししたいことがあるのです、フォシア嬢」
どこか強ばった、緊張すらしているような響き。
フォシアはそれに少し威圧され、つかのま固まってしまった。――私も、という言葉が胸の中で響いていた。
晴れが続き、応接間は今日も穏やかな光に包まれている。
先日と違うのは、ソファで向き合うのが一対の男女しかいないということだった。
グレイを目の前に、フォシアは何度も息を飲み込んで、必死に自分を奮い立たせていた。
ルキアもヴィートも、二人で話があるからといって――こちらも二人きりにされてしまった。
張り詰めた沈黙に逃げ出してしまいたくなる。お互いに困惑して会話の発端を探しているような、かすかなぎこちなさが漂う。
グレイがこれまでこんな沈黙をしたところを見たことがない。だからいまこの間は何を意味するのかフォシアは余計にわからなくなる。
また、ぐるぐると暗い考えに囚われてしまいそうになる。
(……言わなきゃ)
言葉にして、聞かなければ。そうしなければ、この状況を抜け出せない。
自分に何度も言い聞かせ、勢いを振り絞って顔を上げた。
「あ、あの、ジョーンズさん!」
弾みをつけすぎたあまり淑女にはあるまじき大きな声だったからか、グレイは弾かれたように顔を向けた。
瞬く間に顔に熱がのぼるのを感じながら、フォシアはまくしたてた。
「あ、あの、今回は、本当にありがとうございました……っ。さ、さぞかしご迷惑をおかけしたことと思いますが……っ」
「……いえ。迷惑などとは、決して」
「で、でも! あの、う、疎ましいと思われたのではないですか!」
フォシアは半ば混乱したまま、ほとんど率直に過ぎる言葉を投げつけていた。
グレイは怜悧な灰色の瞳を大きく見開いた。
「誰が……、誰を疎ましいと……?」
呆然としたような声がつぶやく。
「じょ、ジョーンズさんが、私を……っ! れ、礼儀など関係なく、本当のことを言っ――」
「ち、違う!!」
突然の強い声に、フォシアはびくりと肩を揺らした。
叫んだのみならず、グレイは耐えかねるといったように立ち上がってすらいた。
冷静な青年がこんなふうに露わな反応をするのを、フォシアははじめて見た。
フォシアの反応を見て、グレイははっとしたようだった。
「も、申し訳ない……」
頭を垂れ、力が抜けたようにソファに座り直す。額に手を当て、低い声でつぶやいた。
「ああ……いや、まさかそのような誤解を招いていたとは……」
ほとんど独白だったが、フォシアには確かにそれが聞こえた。――誤解。
(どういう、こと……?)
混乱していると、グレイはためらいながら告げた。
「……迷惑などとは、決して思っていません。むしろ……いまとなっては、幸運だったのではないかと思ってしまったほどです」
ぽつりとこぼされた言葉に、フォシアはえ、と短く声をあげた。
「――私はただ、ヴィートに協力し、エイブラの横暴をはねのけるために呼ばれました。むろん、自分も理解し納得してそうしました。ゆえに、これを理由や武器にして何かを求めようというのは間違っている。このことによってあなたは拒みにくい立場に置かれたのですから」
言って、グレイは色の薄い唇に自嘲めいた微笑を浮かべた。
「しかしこんな状況にならなければ、私は一生あなたと知り合うことはなかったでしょう。たとえ知り合ったとしても、礼節を保って何の問題もない、適切な関係でいられたはずだ。……そんなことを考えてしまうようになりました」
フォシアは目を瞠った。息を飲む。
――とたん、心臓が跳ねた。
鼓動がたちまち速まってゆく。
――幸運。適切な関係。
グレイは、何を言おうとしているのだろう。
「あなたは、あなたの美しさに吸い寄せられる異性に失望している。私はそういった美醜にあまり興味がない。異性に対して特別な興味を持ったこともない。だから問題なく適切な関係を保てる……そう思っていました」
何かを強く抑えているような、静かな響き。
だがそれが、フォシアの胸を打った。とっさに手で抑えた。そうしなければ、急かすように早く大きく鳴る鼓動が、グレイに聞こえてしまうのではないかと思ったから。
光を浴びて明るく、銀に似てきらめく瞳がフォシアを真っ直ぐに見た。
「――けれど私は、いつの間にか不適切な関係を望んでいる自分に気づきました」
これまでのように率直に、だがそれ以上に強さを感じる声で、グレイは言った。
フォシアは息を止めた。
ふいに強い陽射しに目が眩んだように、目眩がした。
頬が熱かった。唇がかすかに震えたのは、言葉にならないものが衝き上げてきたからだった。ただただ鼓動の音ばかりが雄弁で、頭が茹だってしまったかのようだった。
(……だから)
――だから、グレイは急に避けるような態度をとったのか。
不適切な関係を望んだから。それで、フォシアのためにと自ら遠ざかろうとしたのか。
不器用な奴なんだと笑った、ヴィートの声が頭の隅で小さくこだました。
「……不適切なんて、言わないで、ください」
フォシアが精一杯声を振り絞ると、グレイの目元がかすかに震えた。
『言わなきゃわからないのよ』
姉の優しい声が、耳の奥に蘇る。
胸の内側で心臓がうるさいくらいなのに、頭が熱くてたまらないのに、フォシアは澄んだ灰色の目から逸らせなかった。
無機質で冷たく見えた――けれど不器用で、どこか純粋な目。
(……いつから)
こんな気持ちが、自分の中にあったのだろう。
自分をこんなに真っ直ぐ見る目を知らない。崇拝でも夢見心地でもない、飾らず真っ直ぐな、せつないほどに真摯な目。
「だって……それなら、私の気持ちだって不適切です」
思いが喉をついてこぼれたとたん、グレイが大きく目を見開いた。
純粋な驚きを露わにしたその顔は、少年のようだった。それがまぶしくて、胸を温かくして、フォシアをいっぱいにする。
「お互い、不適切だと思ったなら……本当は、適切と、言えるのではないでしょうか?」
そんなことさえ言って、少し笑おうとした。
グレイの目元が、唇がかすかに震える。
けれど、冷たく感じられるほど整った顔が――わずかに、泣き笑いのような表情をした。
そして次には、強い輝きを宿した目がフォシアを捉えていた。
滑らかに、グレイは立ち上がる。フォシアははっとして、つられたように立ち上がる。
「……手を」
グレイは短く、だがどこか恭しささえ感じて言った。
わずかにためらいながら、フォシアは右手をそっと伸ばした。
その指先が、大きな手に受け止められる。
波に優しくさらわれるようにそっと手を引かれ、グレイが身を屈める。
フォシアの手を取ったまま、もう一方の手を自分の背に回す。――まるで騎士のように。
フォシアの指先に、淡く柔らかな感触が落ちた。
「――今度はただ私のために、あなたを守らせてください」
厳かな、けれど熱情の滲む声。
フォシアの体はかすかに震えた。
――向けられる熱情を、初めて全身で受け止めていた。
触れあう手から生まれるものは心地良く、この場に満ちる空気さえ祝福に満ちている。
目眩を起こすほど全身にわきあがるこの感情の名前を、もう知っていた。
「……はい。ずっと、ずっとお願いします」
フォシアは軽やかに笑った。
陽射しの中にその言葉が溶け、フォシアの金色の髪を輝かせる。
目のふちから涙が一滴こぼれ落ちていったとき、陽光がそれをきらめかせた。