ヴィヴィアンとジュリアスは同時に声のほうへ振り向いた。ジュリアスの後ろに控えていた近衛騎士が剣の柄に手をかけ、闖入者を睨む。
いつのまにか応接間の扉が開き、左半身をもたれさせたタウィーザが尖った微笑を浮かべて立っていた。
「政敵……?」
呆然とつぶやき、ジュリアスを見る。
ジュリアスは嫌悪を顔に表し、タウィーザを睨んでいた。
「控えろ、下郎」
「あんたの命令は聞かない。いつまでも滑稽なやり取りをしてて本題に入りそうにないから手間を省いてやったんだ」
主への無礼に、近衛騎士が殺気立つ。ヴィヴィアンは思わず腰を浮かせた。
「待って! 彼に手を出さないで!」
ジュリアスが一瞬、目を瞠った。が、疎ましげに手を振って騎士達を制し、タウィーザに言った。
「……出て行け」
だがタウィーザはそれが聞こえなかったように、むしろ足を踏み出してヴィヴィアンの背後に立った。ジュリアスが侮蔑の眼差しで射る。
「貴様……」
「俺は奴隷だ。奴隷は道具と同じ。何を知っても何を見ても問題ない。そうだろ」
王子に対して命令は聞かぬといった口で、タウィーザは言った。
ジュリアスは凍てつくような眼差しを向けたが、すぐにヴィヴィアンに顔を戻した。
灰色の瞳はすぐに色を変え、ひたと見つめた。
「順序が乱されて混乱を招いたようだが、その男の戯れ言は気にしないでくれ。いま、我々は内乱の危機にさらされている。政敵というのは、私の敵というのを意味するのではなく、王位を狙う反逆者どもという意味だ。奴らは力を結集しつつある」
語る声には力があり、熱を帯びていた。
突如もたらされた情報は、再びヴィヴィアンに衝撃を与えた。反逆者――。
「……それは本当、なの」
「ああ。君は……ここにいることでそれを知らずに済んだ。それだけは幸いと言えるかもしれない」
――知らなかった、とヴィヴィアンは心のうちでつぶやく。
ここは隔離された地で、自分に情報をもたらすものなどいない。いれかわる侍女は、アンナをのぞいてはみな怯えてまともに口をきかなかった。
(混乱……争い――)
胸がざわつく。
ふいに、ソファのせもたれがかすかに沈んだ。タウィーザが両手をついている。
ヴィヴィアンの後頭部で、ささやくような声があった。
「だから、あんたに政敵を殺して欲しいってさ。同じ国の人間を」
びくりとヴィヴィアンの肩がはねた。目を見開いたまま、息を止める。
ジュリアスの顔が歪み、激しい怒りをタウィーザに向けた。
「貴様……、ヴィヴィアンを惑わそうとするか!」
「惑わそうとしてるのはどっちだ。正直に言えよ、《血塗れの聖女》は使い勝手がいいからまた使いたいと。なんせ一人で兵士何十人分、いや百人分か。おまけに地位も財も求めず、あんたにはよく懐いてる」
冷たく笑う声に、ヴィヴィアンはとっさに振り向いてタウィーザを睨んだ。
タウィーザは背もたれに両手をついて、身を乗り出すような恰好でヴィヴィアンを見下ろしている。
「……ヴィヴィアン、その男の虚言に惑わされるな。これは……君をふさわしい場所へ戻すために、好機として捉えることもできる」
抑えた声に、ヴィヴィアンはゆっくりとジュリアスに目を戻す。
――ふさわしい場所。戻る。
どくんと、心臓がはねる。
問う気持ちが目に出たのか、ジュリアスはうなずいて続けた。
「他の者は、君の献身や信念を理解していないだけにすぎない。ただその力に対してのみ、むやみに怯えているのだ。だがその力が正しく使われ、君がみなの味方であり、王国の守護者であるとわからせることができれば――君を本土に戻せる」
本土に、という熱のこもった言葉が、ヴィヴィアンの頭を揺らした。
だが耳の奥で、なにか歪な響きがした。
ずいぶん都合の良い言葉だ、とタウィーザが揶揄する。
ジュリアスはヴィヴィアンだけを見て続けた。
「ヴィヴィアン。いま一度、私と王国の正義のために戦ってくれないか。都合のいいことを言っているのはわかっている。だが君は、正義を守るために、その身を捧げたはずだ。今度こそ、私はそれに報いたい。もう君はこんな場所で息を潜めなくていい。そうするべきではないんだ。君にふさわしい地位も名誉も、約束する」
ジュリアスの声に力がこもればこもるほど、ヴィヴィアンは冷たく、世界が歪むような気がした。
――力。正しく使われ。
――正義。献身。
(違う……)
耳触りのよい、勇壮な言葉はひどくうつろに聞こえた。
なぜジュリアスは、こんな他人事のような話し方をする。正義や地位や名誉。そのうつろな響きが、胸の中に暗い穴をあけてゆく。
そんなもののために、自分は戦ったのか。
否。
「……五年前の戦いは、なんだったの?」
ヴィヴィアンの思考より先に、喉が言葉を押し出す。
灰色の瞳が見開かれる。
「あれは……あの戦いは、正しくなかったの? 私が、正義というもののために戦わなかったから? だから、認められなかったの?」
「ヴィヴィアン、そうではない――」
言い募ろうとするジュリアスに、ヴィヴィアンは頭を振った。
――それなら、この五年はなんだったのだ。
今度こそという。だが五年前にできなかったことが、なぜ今回はできるといえる?
いくたびもの満月の苦痛と孤独の記憶が、怒濤のごとく胸に押し寄せる。
――不当だというなら。
「どうして。なぜ……もっと早くに、」
気づけばヴィヴィアンは震える声でそうこぼし、寸前で唇を引き結んだ。
視界が滲むのを、瞬きで堪えた。喉がつまり、息が震えた。
こみあげる激しさを堪え、ただ――ただ、一つのことだけを叫んだ。
「正義なんかに、私は身を捧げたわけじゃないわ!」
磨かれた鋼のような瞳が見開かれる。
ヴィヴィアンは目を歪め、顔を背けた。
(あなたの、ために)
――あなたと、あなたの大切な王都を守るために。
正義という漠然とした理想ではなく、すぐ隣にあった大切なもののために、禁忌を犯した。
だから婚約が白紙になることさえも、最後には受け入れた。
なのに――それを、正義という漠然とした、美々しい言葉にされてしまうのは耐えられない。
それは共感でも理解でもない。美化することで突き放し、自分とジュリアスとの関係を遠く隔たるものにするだけだ。
わずかに、ジュリアスが言葉につまったような気配を見せた。
息の詰まる沈黙を、冷笑まじりの声が破った。
「そういえば、あんたの正妃が三番目の子を産んだらしいな」
無造作に放たれた言葉に、ヴィヴィアンは鋭く細い痛みを感じた。
目を、ジュリアスに向ける。
「三人目の側室も迎えただろ。確か十五になったばかりの、それはそれは若くて美しいご令嬢だ」
ジュリアスは整った顔を怒りに歪め、黙れとタウィーザを威圧する。
ヴィヴィアンの頭から、すうっと怒りの熱がひいていく。こめかみにいきなり一撃を食らったようだった。
子供。側室。
ジュリアスが、他の女性を正妃に迎えたのは漠然と理解していた。自分は婚約者でいられなかったのだから。
だが、それでも――他の側室を何人も迎え、子供をもうけることまでは、考えてもいなかった。漠然と避けていた。
他の女性を正妃に迎えても、それ以外の女性は迎えない――それが自分に対する思いの最後の一欠片ではないかと、勝手に思い込んでいた。
タウィーザの笑いが、茨となってヴィヴィアンの全身を苛む。
「この聖女さまが一人さびしく時間を過ごして、満月のたびに苦痛と飢えをやりすごす間に、あんたは厄介者をこの島に追いやり、おかたい家のお綺麗な女と楽しく過ごして、子にも恵まれたってわけだ。が、厄介な状況になって、このさびしい聖女さまを思い出し、引っ張り出して利用しようと思い立った。ずいぶん賢い立ち回りだな、王子様」
「――っやめて!」
強い怒りを露わにしたジュリアスよりも先に、ヴィヴィアンはほとんど悲鳴じみた声をあげた。
ぎし、とソファの背もたれが軋む。タウィーザの気配が、ヴィヴィアンに近づいた。
「やめない。あんたはここで真実を知っておかなきゃ、ずっと檻から出られない。こいつに利用されつづける」
低いささやきが耳を侵す。
ジュリアスの鋭い声が、そのささやきを払おうとするかのように飛んだ。
「戯れ言をまともに捉えるな、ヴィヴィアン。その卑しい男は、君をもてあそぼうとしているだけだ」
ヴィヴィアンは、さまよわせていた視線を鈍く上げる。かつての婚約者であり、王子であるその人を見る。
険しい顔――警戒しているような表情。
「……本当なの、ジュリアス」