悪魔のような令嬢、その婚約に反対する。11

 たっぷりと数秒はそうやって固まったあとで――かあっと頬が熱くなった。同時に胸に言いようのない罪悪感と自己嫌悪がわきあがり、言葉に窮した。
 ただ心臓だけが、何よりも雄弁に鼓動を速くした。

「婚約に対するあなたの些細な妨害などものの数にも入りません。ただ……、あなた自身に心を奪われることは予想外でした」
「っ! わ、私は……っ!」

 とっさにそう答えかけ、だがグリシーヌは胸に手をあてた。忙しない鼓動の奥で、きゅっと締め付けられたように苦しくなる。
 向けられる言葉の一つ一つが、心を揺らす。嵐のように翻弄されてしまう。
 オリヴァーが振り向いて、目が合ったとたん動けなくなってしまう。

「責任を感じるがゆえに私を拒むなどとは言わないでください」
「で、すが……」
「言ったでしょう、ロジエ嬢とは話し合い済みだと。彼女もまた――私に恋をしていたわけではない。このたびの婚約を破談にすることは、半分はロジエ嬢の望みでも……ありました」

 グリシーヌは息を飲んだ。
 オリヴァーの口調は淡々としている。怒りはどこにもない。
 けれど――ロジエの考えや気持ちを、確かに理解してくれていたのだ。
 そして気の合うように見えた二人なのに、ロジエのほうも破談を進んで受け入れたとはにわかには信じられなかった。

グリシーヌ・・・・・

 ふいにこれまで聞いたことのない声が、グリシーヌの意識をオリヴァーに引き戻す。

「私のことがまだ嫌いですか。私をまだ軽蔑しますか」

 眼鏡越しの、緑の目が見つめている。
 ただ真っ直ぐに、その瞳の奥には熱さえ感じられる。
 からかうでも皮肉を言うでもなく、ひたむきに何かを求める男性がそこにいる。
 グリシーヌは唇を薄く開き、何の言葉にもならぬその形のまま硬直する。

 嫌いな――わけは、ない。

 はじめこそ反発した。怒り、軽蔑もした。だが――。
 クレール夫人の言葉が蘇る。
 オリヴァーが変わった理由。遊び・・を一切やめたという。ロジエに対する完璧な態度。自分とは違う。自分だけが、違った。その理由。

 こんな目をして自分を見つめてくる人を、他に知らない。拒絶などできない。

 弱く、頭を振る。

「私は……、でも――」

 でも、と臆病な自分が震えている。“悪魔のような”姉にずっと覆われていた、省みられることのなかった自分が。薔薇の影に隠れて、見られるはずのなかった自分が。
 そして疑いを抱き、ささやく。

「なぜ……ですか。私など、ロジエに何一つ及ばぬ――」

 そう言葉を続けようとしたとたん、ふいに唇に触れるものがあった。
 息が止まる。
 オリヴァーの長い指が、封をするようにグリシーヌの唇に当てられていた。

「言ったはずですよ。あなたは自らその美しさを隠し、埋没させているだけなのだと」

 グリシーヌは藤色の眸を大きく揺らした。
 唇に指を触れてグリシーヌの言葉を封じたまま、オリヴァーははじめて聞くような優しい声で続ける。

「そもそも、容姿の優劣で私の心を動かすことはできません。私はそういったものにはもう飽いている。私があなたに興味を持ったのは……妹に対する純真さと献身ゆえです」

 グリシーヌはぱちぱちと目を瞬かせる。

「あなたは少し口下手かもしれない。間違いなく不器用ではあるのでしょう。だが妹の名誉と幸福のためには鋭い弁舌が発揮される。行動すらもそうです。あなたは悪魔というより、薔薇の姫君を護る守護天使だった」

 薔薇には自らを護る棘が備わっているというのに――そう言って、オリヴァーは少し笑った。

「世には、兄弟愛、姉妹愛をたたえる美談が多く溢れている。なぜかといえば、多くの人がそれを求めるのに実際にはあまりにも少ないからです。我々の社会では特にそうだ。なのにあなたは、それを自然に持っている。それがどれほど希有で尊いものか、あなたも、周りの人間も理解していない」

 ほとんど息を潜めるようにして、グリシーヌはそれを聞いた。
 軽い衝撃――我々。貴族の社会。
 確かに、他の伯爵家や子爵家、侯爵家などにいたっては更に政略結婚の色合いが強いと聞く。自分たちの両親が非常に幸運なのだと気づいたのは、長じてからのことだった。

 だからだろうか。
 眼鏡の奥のオリヴァーの眸は、ほんの少し寂しそうな、それでいて眩しいものを見ているように見える。

「あなたの純真と妹への愛情が、無知な悪評から妹とあなたの絆を守っているのです。ひいてはあなたの家族をも」

 グリシーヌはかあっと顔が熱くなった。これ以上は溶けてしまうというぐらい熱いのに、オリヴァーの言葉が胸に火を灯す。
 かつて、こんなふうに見てくれた人はいなかった。
 グリシーヌにとって妹を愛するのは当たり前で、その感情が特別なものとすら思わなかった。
 それが、オリヴァーにとっては眩しく映ったというのか。
 オリヴァーは目を細めてグリシーヌを見つめた。

「ロジエ嬢も、あなたからの愛情をまったく疑っていない。彼女の美しさはまさに花です。家族の、姉の愛情を存分に浴びて咲き誇る花だ。それほどの大輪の花を咲かせる豊かな水と光……あなたの、その純真で真摯な心に想われるのはどんなものなのだろうと思いました」

 穏やかな賞賛と羨望の滲む声に、グリシーヌの胸の内は温かなものでいっぱいになる。かつて感じたことのない誇らしささえあった。
 ロジエをこんなふうに褒められたことが、自分をこんなふうに認めてもらえたことがこれほどに嬉しい。

「気づけば、あなたのその心に想われたい、そこに住みたいと思うようになりました――永遠に」

 グリシーヌは息を止める。体が震える。けれどオリーヴ色の瞳から目を逸らせない。
 ふいに、左手を優しく取られた。
 熱い手だった。熱くて大きな――オリヴァーの手。

「グリシーヌ。藤色の目の天使」

 手に劣らぬほど熱の揺らめく声がささやき、形の良い唇がグリシーヌの指に触れた。
 グリシーヌの体に再び細波がはしる。
 指から唇がそっと離れていき、そして。

「どうか――私だけの天使になってください」

 その声が、ひどくグリシーヌの胸を衝いた。
 それは紛うことなき懇願だった。目眩がするほど甘く、けれど声を失うほどひたむきで切実な、希う者の声だった。

 グリシーヌの視界が滲んだ。オリヴァーの熱が移されたように、熱いものが目から溢れ出て、こぼれ落ちる。
 こみあげてくるもののせいで喉が締め付けられる。

 ――自分などと婚約してしまったら。
 周りに何を言われるかわからない。きっといま以上に悪評が立つ。そして、それにオリヴァーを巻き込んでしまうかもしれない。
 怖い。
 省みられなかった自分グリシーヌが、答えを奪う。

「わ、たしは……」
「グリシーヌ、あなたの正直な気持ち以外には何も聞きたくない。『はい』という言葉以外には何も聞きたくありません」

 オリヴァーはかすかに笑った。それでも、グリシーヌの手を放そうとはしない。
 グリシーヌもつられるようにして、ほんのわずかに笑った。

「何があっても、あなたを護ります。――薔薇の天使とも、そう約束しましたから」

“夢のような”貴公子は真摯な表情になっていった。夢のように甘くとも、その眼差しも声もひどく鮮明で力強く、夢のような儚さも朧さもなかった。
 眼鏡の向こう、オリーヴ色の瞳が真っ直ぐにグリシーヌを見ている。

「私の天使。答えは?」

 淡い風が吹く。
 オリヴァーは目を逸らさずに待っている。
 あとは――グリシーヌの、答えだけだった。
 何度も何度も震える息を吐いて、吸って、そうして藤色の目の守護天使は、勇気を振り絞った。

「はい……、はい、オリヴァーさま」

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