結月は瞠目する。
「番……」
「ああ。番を求めて発する体臭が消えてる。頭が冷えたってのもあるんだろ。アルシュは本来、そこらの馬鹿どもより遥かに冷静だからな。恋に頭がおかしくなるってのは人も獣も同じだが、一時的なもんだ」
そう言って、カーデムはなにか物言いたげに結月を見た。
結月は口ごもる。
発情期、という言葉が頭に浮かんだ。動物にあるという恋の季節。
アルシュにもそれがあって、でも答えてくれる相手がいないからそのまま時が過ぎて――冷静さが戻った。そういうことなのだろうか。
結月の全身はすうっと冷たくなる。
アルシュに求められる空想の番への嫉妬。だがそんなものはいないということの暗い安堵。自己嫌悪。アルシュに求められる存在に、自分はなりえないのだという絶望。
カーデムが自分を見ている。その目には、間違いなく憐れみが浮かんでいた。
かすかにアルシュが身動ぐような音がして、男はそちらに目を向けた。
「……お前……?」
驚いたようなかすれ声。
結月は緩慢に顔を上げ、アルシュを見る。だが高貴なグリフォンは静かに佇んでいる。
ほんの一瞬、かすかに体を動かしただけであるというように。
結月の目と、一塊ほどの黄金をも思わせる目が合う。
「……仕事は終えた。俺は帰らせてもらう」
カーデムの強ばった声がする。
「あ、ありが……」
結月が緩慢に顔を向けて礼を言うころには、世話役の男はもう背を向けて厩舎を出て行くところだった。
その態度の急変ぶりに、結月は少し不安になる。いったい何があったのだろう。
目をアルシュに戻す。
結月はごくりと息を飲む。
カーデムの言葉――気に食わない人間にはそもそも近寄らせることさえしない。
許可をもらえばいい。
ふらりと、吸い寄せられるようにアルシュに向かって踏み出す。
精悍な双眸が結月を見ている。微動だにせず、接近を許している。――これまでと同じように。
「……アルシュ、あなたに触れてもいい?」
おずおずと、問う。
気高きグリフォンは答えない。だが抵抗もしない。動かない。
好きにしろと――言われているのかもしれない。
結月はそんな都合の良い解釈をしてしまう。それでも、アルシュに触れようとして怪我をするなら構わない。
そろそろと手を伸ばす。指先が、柔らかな毛に触れる。
結月の体に甘い震えがはしる。アルシュの様子を見ながら、そのまま手を埋める。
柔らかく、温かい。絹のようだ。
焦がれたその感触に酔いながら、黒毛に覆われた胴を撫でる。
夢中になっていると、アルシュがわずかに動く気配がした。
はっとして手をはねあげ、顔を見る。
そこで息を止めた。
間近に見える琥珀色の目。雛鳥のように無垢な色の嘴が自分に向けられている。
ミミズクに似た羽角と、凜々しく美しい鷲の顔が、屈められている。
体とその頭とで、ゆるやかに結月を囲い込むように。
黒い翼が持ち上げられ、結月の頭上に天蓋をつくる。
それが何を意味するのか、結月にはわからない。
だがアルシュの、胸の部分だけにある灰色の毛がひどく美しくて、どうしようもなく触れてみたくて、そこにも手を伸ばす。
柔らかな場所に触れる。
アルシュはそれをも許してくれる。
抗いがたい力に吸い込まれるように、結月は顔と体とをそこに埋めた。
とほうもなく柔らかく滑らかで、温かく受け止められる感触に頭と体が蕩ける。
ほとんど身を委ね、抱きつくような形になっていることにも結月は気づかない。
高貴なグリフォンは動かない。ただ結月を許し、自由にさせる。
「ああアルシュ――」
アルシュアルシュアルシュ。
激しい想いで喉が溺れる。すべてをこめてただその名を呼ぶ。
痺れるような幸福感が、何もかもを押し流していく。
アルシュが自分に振り向いてくれなくても構わない。
番になれなくとも構わない。言葉などなくてもいい。
アルシュが自分を拒まないでいてくれるなら。
――こうして自分の側にいてくれるなら。
*
自分の見たものがにわかには信じられず、カーデムの足は早くなる。
顔がひどく強ばっていた。
一刻も早くあの厩舎から、あのグリフォンと元聖女から離れたかった。
――そうしなければ自分まであの狂った世界に囚われそうな気がした。
(どういう、ことだ……)
あの目。アルシュの眼差し。
カーデムはもともと、動物全般が好きだ。幼い頃から彼らの意思がなんとなくわかったし、その力を買われて高貴なるグリフォンの筆頭世話役になった。
アルシュは物静かで極めて聡明な動物だったから、意思の疎通は楽だった。
――アルシュの意思のようなものを、カーデムはほぼ正確に汲み取れる。
そのはず、だった。
しかし、そうだとするなら――去り際に見た、アルシュのあの視線の意味は。
(静かな、怒り……?)
自分の、生き物の意思を汲む力が衰えていないとするなら、あれは確かに怒りだった。
だがカーデムはアルシュの怒りを買うような行動など一切とっていない。
否。考えられるとすれば……。
(聖女と、話したからか)
そんなはずはない、と理性が否定する。
しかし自分との会話の中で聖女が落ち込む様子を見せ、相変わらずアルシュに入れ込むなどという馬鹿な真似をした異世界の女を憐れみの目で見たとき、確かにアルシュの刺すような怒りを感じたのだ。
背が凍りつくようなそれを。
――あのとき、カーデムはなぜか激しく動揺した。
そして思ったのだ。
アルシュが番を求めて発した体臭。それは、いつからだった?
(聖女が、現れてから……)
それがおさまったのが、いまだ。
――その理由は。
アルシュが番を諦めたからだとか、恋の季節が終わったとか、もののように王から元聖女へと所有権が変わったことに対する失望や諦観ではないのだとしたら。
(番を――得たから……?)
目的を果たしたから、あの体臭は消えたのではないか。
そう思い至ったとたん、カーデムの全身は総毛立った。吐き気がこみあげてくるようで、とっさに口元を押さえる。
いまこのときほど、自分の力を忌々しく思ったことはない。こんな考えには思い至らないほうがどれだけよかっただろう。
皮肉にも、おかしくなったあの元聖女は気づいていない。
カーデムのような力がなく、アルシュのことがわからないから、触れることをおそれている。嫌われると怯えているのだ。
あれほど執着し、他の何に見向きもせずアルシュを望んでおきながら。
元聖女にしてたった一人の異世界の女。
孤高にして孤独なグリフォン。
(……狂ってる……)
おかしいのは、あの元聖女だけではなかったのか。
いや、それさえも逆なのではないか。
――先に狂ったのは、どちらだったのだろう。