むき出しになった鉄格子が、自分を閉じ込めるためのものだと知ったのはいつだっただろう。
その向こうにはただ、ただ青。無限の海が広がっている。白い鳥は競うように飛んでゆき、シンの羨望を振り払って消えていく。
自分のほかには数人の老女だけ。その老女たちはまるで監獄にとらえられた罪人の生気がない。
事実、ここは監獄なのだとシンは思う。
海の向こうには大陸があって、数えきれないくらいの人々が住んでいる。
自分と同じくらいの娘、年上、年下のもの、男性、さまざまな人間がいる。
それを考えるだけで、シンの胸は弾み、同時に沈んだ。
シンは歌が好きだった。意識せず鼻歌を口ずさみ、意識しては小声で歌う。
自分以外の誰にも聞こえぬように。
シンにとって歌は鳥が空を飛ぶのと同じ、魚が海を泳ぐと同じ、生き物の呼吸と同じことだった。
けれど、シンの声は禁じられたものだった。
これは破滅を告げる声。崩壊を誘う音。
普通の会話以上の声量で歌うことは強く禁じられた。
それでも小さな頃は頭から押さえつけられたことに腹をたて、自分の感情も制御できずに大声で歌ったことがある。
そのときの記憶は定かではないが、とにかく身体がふるえるほどの快感がきたことを覚えている。
そして、同時に周りにいたものたちが次々と倒れ、剥いた目をこちらに向けて絶命したことを。
あの瞳。ガラス玉のように生気のない眼。
眼球の歪曲面にうつった自分の姿はひどく醜かった。
シンはそれ以来歌うことをやめた。
人から隔離され、片手ほどの世話人と共に離島に取り残された。
物心ついてからは自分の声が何をもたらすのかを理解した。
だから、このまま死ぬのだと思っていた。
そのことに対して何も思わない。
ただ時折目を閉じて耳を澄ます。
なつかしく切ないほどに胸をかきみだす旋律を聞く。
風にのって海をこえてくる、同じ少女の歌声を。
現代の導き手としてソインは選ばれた。
幼いころから羨望と憧憬、崇拝を一身に浴びて育った。
歌うことはソインの喜びであり、またそれによって周りのものもいっそう頭を垂れた。己が神であるかのごとくに思えたのは、ごく自然の流れだった。
そもそも女神の子孫なのだから、間違ってはいない。
自分の声は神の声。自分の旋律は女神の旋律。人々を導き、従わせるための唄だ。
「なんでわたくしがここから退かなくてはいけないの?」
「し、しかし“悪魔”が…!」
「馬鹿馬鹿しい。そんなものはいないわ」
すぐさま神殿から逃れるようにという懇願を一蹴し、ソインはドレスのすそをひるがえして奥のほうへと戻っていった。
悪魔などという、自分以外のものに怯え、屈伏しようとしているものたちが惨めたらしく、苛立って仕方なかった。
だがその存在を気にかけてはいた。
突如あらわれ、各地に散って結界の役割を果たしている“導き手”を次々と殺害しているもの。
導き手が死ねば歌は消え、汚染は大陸の内側に向かって徐々にその手を伸ばし、しまいには、この世界から生き物という生き物を引きずりおろしてしまう。
導き手がいるからこそ、危うい均衡を保っているのだ。それを壊すのは世界を滅亡させるのと同じ。
だから人は導き手を崇め、大切にする。
例外はない、そのはずだった――。
(狂人ね)
鼻で笑って、嫌悪する。死にたいのなら自分ひとりで死ねばいいのに、と毒づく。
ソインは神殿から出る気はなかった。
町の喧騒から少し離れたところにある、白亜の城は自分だけのものだった。
導き手の声がよく響くように特殊な石材で建てられており、閉じこもっていても苦労しないようにと珍しいものが多々集まり、仕えのものも数多くいる。
いわば、小さな国といってもよかった。
ソインは神殿の奥の舞台へと立った。そこは海に向って開かれている。気が向いたとき、練習したいとき歌声は、たいてい海に放った。
なんの障害物もないからだ。
すっと息を吸う。気管、肺までが通気管のようになるような感覚だった。
『 花摘みの娘が笑うよ 日の光は優しく
鳥が飛んでゆく 青と白と光
くるくる回る 羽と翼 』
声ならしに歌った一節。
喉がとたんに温まるのを感じて、ソインは神経を研ぎ澄ました。
『 やがて来る終焉に 一人の女が降り立った
女は歌を歌った 救いの詩
声が飛ぶ 声が泳ぐ 声がはしる 救済の詩 』
古の吟遊詩人がつくった、女神降臨の序章。
導き手にとって、歌詞はなんでも良かった。そこに歌が成立していれば。
ソインの地声は高い。歌となるとさらに高くなり、同時に低くもなる。
導き手の音程は通常のそれとは違う。
声はうねり、意志と力を帯びて拡散する。
誰かが手を止める。耳を澄ますのが解った。
『 闇を打ち払う光の御手 指先は甘く香しく
おお 神よ あの人は使徒
おお 女神よ あなたこそが救世主―― 』
高くはりあげた声は女声の合唱のごとく響き渡り、空気を刺す。
一人から放たれたとは思えぬほど重なり合った余韻が渦となる。
体を震わせるその振動に恍惚とする。
陶酔の残響の中にいたソインは、それを粉砕される感覚を受けてはっと振り向いた。
「忌まわしい歌だな」
ソインは一瞬、何を言われたのかわからなかった。
屋根の部分に、全身を黒く染め上げた一人の男が立っている。
殺気のあふれたまなざしをソイン一人に向けていた。
ソインは背筋の震えとともに、男の存在を認識した。
――“悪魔”。
男は対峙するソインに頭を垂れず、膝も折らなかった。
「穢れているのは、どちらだろうな?」
ただ、すべて見透かしているような笑みを浮かべるだけだった。
男が降り立つ。黒のマントがなびいて、カラスの翼のように見えた。
少女は動けなかった。男がゆっくりと剣を抜くのも、その刃が光にきらめくのも。
喉が詰まる。そこだけまるで意志を離れて、別の生き物になっているかのようだった。ソインは全身の力を振り絞って、後退した。
(いや…死にたくない!)
凍てつくような恐怖とともになぜ、という問いが嵐となって吹きすさぶ。
なぜ、“導き手”である自分が死ななければならない?
誰よりも生き延びて、誰よりも大切にされるべきこの自分が――。
刃が、風を切る。
ソインは逃げられなかった。とっさに、目を閉じた。
「やめろ!」
ふいに突風が割り込んだ。それはソインの声ではなかった。
ソインははっと目を開けた。
間に入り込んだ風―― 一人の青年だった。
黒ずくめの男の剣を受け止め、弾く。ソインを守るかのように立ちふさがり、対峙する。
「貴様…!」
黒くめの殺気が急速に膨張し、青年に向けられる。跳躍。交差。
目に見えぬほどの剣の応酬だった。だが遠くからやってくる援軍の気配に気づいたのか、黒ずくめの男は舌うちする。
「いずれ、必ず殺す」
そう吐き捨て、即座に身をひるがえした。
「待て、エス…っ!」
青年はその後を追おうとした。だがはっとして、背後に向く。ソインは呆然としていた。青年は丁寧に膝を折って頭を垂れた。
「あ、あなた…誰? いったい、何なの?」
「ご無礼をお許しください。私はあの男――“悪魔”をずっと追っていました。あなたのような“導き手”を守るために」
快活な眼差しに心地よいものを感じて、ソインはふっと緊張がほどけるのを感じた。
ぐらり、と体が傾く。
「! お気を確かに…!」
とっさに青年に抱きとめられる。顔に熱がのぼるのを感じたが、それよりも震えがどっと襲ってきてソインは青年の腕をつかんだ。
強く、たくましい腕だった。
ほうと息を吐く。ゆるりと顔をあげると、青年と目が合った。
「あなた…名前は?」
予想外の問いだったのか、青年が目を見開く。だがすぐに、柔和な笑みにとってかわられた。
「イドと申します、歌いの姫君」
それが、のちに英雄と語られる青年の名だった。