仕留めたウェイスボアは急ぎ血抜きと内臓処理だけ行い、ラピスが男と一緒に運んだ。
森を抜け、隣国の国境の村にたどりつくと、フィアルカは宿をとった。目を丸くする主人に、ウェイスボアの肉の一部と幾ばくかの硬貨を渡し、部屋と厨房を借りた。
厨房といっても質素なもので、道具も最低限しかない。
――だがいまはそれで十分だった。せっかくの獲物だが、腕によりをかけて、などと悠長なことを言っている場合ではない。
ウェイスボアの一番柔らかい肉の部位を薄切りにして、持参していた塩とコショウ、それから香草をふりかけて念入りにもみこむ。肉の出汁が出て柔らかくなったのを確かめると、椀に一人分とった。
匙と一緒に、名も知らぬ男を寝かせた部屋に持っていく。いたく不満げな顔をしてラピスがついてくる。
男は質素な寝台に横たえられていた。顔色が悪い。
――首に張っていた黒い蜘蛛の巣状のものは、頬にまで這い上がっていた。
フィアルカは男に声をかけた。男は朦朧としている様子だった。
背中に寝具を積んでもたれさせてやり、なんとか上体だけ起こしてやる。
そして、スープをすくった匙を、男の口元に持っていった。
「食べてください」
男の目は焦点が合わないままで、何かを言おうとしたようだった。だが言葉にはならず、薄く開いた唇の隙間に、フィアルカは匙を滑り込ませた。
男がわずかに抵抗するような、ためらいの気配を見せたが、やがて嚥下する。フィアルカは黙々と匙を運んでは差し入れた。
「……不快だ」
閉めた扉に背をもたれさせ、不機嫌に両腕を組んだラピスが言った。
フィアルカは眉をひそめて相棒のほうへ向く。
「見てるんだったら手伝って」
「断る。何で俺がそんなことをしなくちゃならない」
不機嫌を隠そうともせず、ラピスは言う。
フィアルカもまた呆れたような息を吐いたが、既にラピスは十分なほど手伝ってくれているのは事実だった。ウェイスボアを仕留めて運ぶ、この男をここまで運ぶ、不満を言いながらもラピスがやってくれたことだ。
椀が空になるまで男に食事を与えたあとで、経過を見守る。
蒼白になったぶん、黒い血管が禍々しく浮かんでいた顔。苦しげに寄っていた眉間。
それがやがて――緩やかに解け、和らいでいく。
同時に、首や頬にはしっていた黒い血管もまたすうっと消えていった。
フィアルカが安堵を覚えると、やがて男の瞼が震え、ゆっくりと持ち上がった。
先ほどまでぼやけていた目に光が戻っていく。
「大丈夫ですか?」
フィアルカが声をかけると、男は少しぼんやりしたあと、ふいに焦点を結んで大きく目を見開いた。ぐったりとかろうじて起こされていた上体をはね起こしたかと思うと、突然フィアルカの手首をつかんだ。
「な、にをした……っ!?」
「……ちょっと、あの、落ち着いて」
手首をつかむ力の強さと男の剣幕にフィアルカは顔を歪める。
男が眉をつりあげてフィアルカを睨む最中、ふいに、もっと不敵で不遜に鼻で笑う声がした。
「このいままで間抜け面をさらして寝ていた輩が、いまさら何を警戒する」
男はそこで、はっとしたように扉を背にして立つもう一人を認めた。とたんはっきりと険しい顔になり、藍色の目をした長身の男と、傍らにいる菫色の目の女を見る。
フィアルカは口を開いた。
「あなたが倒れたので、この宿に運びました。そこのラピスがね。森を出てすぐのところです」
「な……、お前たちは一体――」
男はにわかに混乱しているようだった。――それも無理のないことだとフィアルカは思う。
左手で空になった椀を、右手で匙を軽く持ち上げて見せた。
「あなたに食べさせたのはウェイスボアの肉を使ったごく簡単なスープです。ああ、私、特殊調理師なので。……体、楽になりましたよね?」
男は大きく目を瞠った。そして思わずといったように、黒い血管が浮かび上がっていた場所に手を触れる。
それで、フィアルカは改めて確信する。
「――あなた、《毒魔》に罹っていますね」
男が息を呑んだ。端整な顔が強ばる。反論しようとした気配に、フィアルカは軽く匙を振って遮った。
「糾弾しようとかそういうのではないです。《毒魔》は一種の体質ですから。ウェイスボアの肉が必要だったのは、そのためでしょう?」
疑念と警戒を色濃くする男の目に向かって、フィアルカは冷静に言い聞かせた。
――《毒魔》は、巷で噂されているような魔物憑きだとか、魂の汚れたものとかでは断じてない。
《毒魔》に冒されたものは血が黒くなると言われているが、普段は普通の人間と同じ赤い血が流れているし、発作が起きたときに血が黒く変色し、血管が浮かび上がってしまうのだ。
ただ、魔物の血肉を定期的に摂取しないと類を見ない発作が起こり、ひどく苦しんで死んでしまうという謎の症状だ。類を見ない奇病、難病といったほうが正しい。
「……けど、魔物の肉を調理して、食べられるぐらいに処理するには特殊調理師が必要ですよ」
フィアルカは言いながら、男の様子を観察した。
――男はどう見ても、平民ではない。
しかし貴族階級なら、それこそ人を雇って魔物を仕留めればいいことだ。
そんな男が一人でどうしてウェイスボアを狩ろうとしていたのか。
――何か不測の事態が起こったのかもしれない。
巷でおそれられているぐらいだから、名誉を重んじる貴族ならことさら、《毒魔》に罹っているなどということは隠しておきたいだろう。
《毒魔》はある日急に、その症状が表に出ることがある。
男の目にかすかな迷いが現れ、だがすぐにはっきりと意志の光を結んでフィアルカを見つめた。
「お前は、その、魔物の肉を扱える特殊調理師とやらか。名は?」
「フィアルカといいます。……あなたは?」
男の長い睫毛が上下に動いた。
「……ユーリイ。ユーリイ=リチェーニエだ。フィアルカ、お前に頼みがある」
フィアルカは目を瞬かせる。
男――ユーリイの目に切実なものが宿り、フィアルカに向き直った。
「俺と同じ症状の……いや、もっとひどい症状の出ている者がいる。その者を助けてくれ」