そこまで親しかった相手でも、特別に信頼していた相手でもない。――だが、こんなことをされるほど嫌われていたのか。
男がまた、一歩近づいて来る。
「る、ルキアが、ルキアを呼びます……っ」
とっさにそう叫ぶと、不自然なほど笑みを露わにしたアイザックの顔に、つかのまだけ怒りがよぎったようにみえた。だがすぐにそれをかき消すように、甲高い笑い声が響いた。
「あんなか弱いご令嬢に何ができます? ――ああいや、小賢しい真似はできるのでしたねえ。老いぼれ神官を籠絡して我が父の邪魔をさせようとするぐらいには」
あんな貧相な体で。
粘ついた嘲笑の声が、フォシアの耳を侵した。
――とたん、強い吐き気がフォシアの中を衝き上げた。
この目の前の男は、汚らわしい言葉でルキアを侮辱した。
「同行していて、これほど近くにいたというのに、私とあなたの恋の成就に気づかなかったと知ったら……さぞかし悔やまれることでしょうねえ」
おそろしい男が、アイザックが距離を詰める。
恋の成就という言葉はひどくおぞましく禍々しく響き、フォシアの全身に怖気がはしった。
同時にぐらりと目眩がし、喉が詰まった。
――この男は、ルキアを侮辱した。
――この男の前でなお、とっさにルキアに助けを求めてしまった弱い自分。
ルキアを巻き込んではいけないと――そう思うよりも先に、助けを求めてしまった。
フォシアは喉をしめつけられたような苦しみを感じ、声をあげようとして、脆い吐息だけがこぼれた。
震える足で、後じさる。嫌悪と恐怖とで足がすくみそうになる。
(だ、れか……)
姉を、ヴィートを、両親を思った。
そして銀に似た灰色の瞳をした涼やかな青年を思った。
とたん、熾火のように胸に彼の声が響く。
『あなたは臆病で卑怯な人間などではない』
グレイは、そう言ってくれた。
『それもまた、勇気と言わずして何というのですか』
涼やかな目。冷徹に見える双眸の奥に、不器用さをのぞかせたグレイの真っ直ぐな眼差し。
フォシアは強く奥歯を噛んだ。
――動いて、逃げるのだ。いますぐに。自分の足で。
身をよじり、壁伝いに出口へ向かおうとする。
アイザックが小走りで距離を詰めた。フォシアもまた駆けた。ほんのわずかな距離であるはずなのに、日頃走ることなどしない足にドレスの裾が絡まる。
無造作に腕を掴まれる。指が食い込んでくる痛みに、フォシアは小さく悲鳴をあげた。
「話をしようともせずに逃げるなんて無礼じゃないか」
「は、離し……っ」
とっさにあげた声が途切れた。
突然腕を引かれたかと思うと壁に後頭部を打ち付け、フォシアの息が一瞬止まった。視界が明滅し、背中全体に固い壁が当たった。
「こちらが優しくしてやったのに、いい気になりやがって!」
唾が飛び、アイザックの荒い声がフォシアの耳をつんざいた。
打ち付けられた痛みに顔を歪めながらかろうじて目をあけると、怒りにかられ、紅潮し歪むアイザックの顔が間近にあった。
「お前なんか、本来なら僕に声をかけられることもない卑しい家の娘なんだ! それを、その顔に免じて僕が慈悲をかけてやると言ってるんだぞ!」
アイザックの両手がフォシアの両腕に食い込み、激しい苛立ちをあらわすように揺さぶった。
「お前なんか、顔だけだ! 勘違いするな!」
激しい怒声を浴びせられ、フォシアは凍りついた。
はじめて直面する露骨な怒りと暴力の気配は、全身を殴りつけてくるようだった。
――顔だけ。
その言葉が、何よりフォシアを撲った。
脆いところを土足で踏みつけられたようで息が詰まる。唇が震え、とっさにこみあげてきたもので喉が震えた。
(……好きで、)
――好きで、この顔に生まれついたわけじゃない。
羨まれ、嫉まれ、勝手に決めつけられる。珍しい服を手に入れようとするのと同じ熱心さで群がられる。
それなのにひそかに想った人には何の意味もなく、目の前のこの男まで――お前の価値は外側だけだと決めつけられる。
恐怖と吐き気にまじり、暗い火に似た怒りが胸を焼いた。
ぐちゃぐちゃにまじった感情が、フォシアの目から雫となってこぼれた。
――涙など見せたくないのに、溢れて止まらなかった。
「そうやってはじめから大人しくしていればいいんだ」
アイザックが粘ついた暗い笑みを浮かべ、片手を離す。だがその手が襟にかかり、フォシアは震えた。
声が出ない。頭が真っ白になり、それから――。
「フォシア! フォシア、そこにいるの!?」
扉を叩く音とともに、耳慣れた声が天啓のように響き渡った。
「ル、――!」
とっさに叫び返そうとしたフォシアの口を、不気味なほど軟らかく厚い手が塞いだ。
フォシアの口を塞いだまま、アイザックは一瞬扉を忌々しげに睨んだ。
「あの女……!!」
そう吐き捨てたあとフォシアに再び向き直ったとき、男の目に加虐が揺らめいていた。
「は、はは! ちょうどいい、証人になってもらおうじゃないか。お前が僕のものになったということの!」
フォシアは濡れた目を見開いた。
扉を叩き、自分を呼ぶルキアの声。湿った厚い手の下でそれでも声をあげようとしたとき、両腕を乱暴に引かれ、床に倒された。
体を打ち付けた痛みを無視して起き上がろうとすると、アイザックの重い体がのしかかってくる。
獣のような荒い息が降り、暗く欲望にまみれた目が見下ろしている。その口元が歪み、笑っていた。
(いや……)
目の前が真っ暗になり、あまりのおぞましさに吐き気がこみあげる。
ルキアの、悲鳴のような呼び声が聞こえる。
フォシアはもがいた。だが過剰に肉をまとった男の体は重く、のしかかられては抵抗ができない。
やがて太い手が無遠慮にドレスの上を探り、フォシアは激しく抗った。視界が歪み、嗚咽で呼吸が乱れる。誰か――。
(助けて……っ!!)
――次の瞬間、叩きつけるような衝撃音が、鼓膜を破かんとするほどに響き渡った。
フォシアは目を見開き、何もわからないまま、のし掛かる男もまた動きを止め――そして甲高い悲鳴と共に視界から男が弾き飛ばされた。
アイザックの重い体はわずかに離れたところに転がり、腹の周りを抑えてうずくまる。
突然解放されたフォシアは、頬を濡らしたまますぐには動けずにいた。
だが滲んだ視界に映ったのは、銀にも似た涼やかな灰色の瞳だった。
鋭く、けれど強い光の照り返しを受けた剣のような目。
状況も忘れて、フォシアはその目に魅入った。
瞳に映り込んだ小さな光点。目元のかすかな赤み。少し息が荒い。
いつもの彼とは別人のようだった。
「……フォシア嬢」