婚約破棄された令嬢は、灰の貴公子に救われる3

 その日は雲一つない晴天で、まるで新たな夫婦の新たな人生を祝うかのようだった。

「――おめでとう、ヴィート、ルキア!」

 列をなして新郎新婦を迎える人々の合唱が響き渡る。
 フォシアもまた、両親とともに祝福の列にいた。泣いてすっかり目は腫れて、おめでとうと叫ぶ声も鼻声になってしまっている。
 それでも、二人を祝った。

 姉とその婚約者の、ようやくの結婚式というだけではない。

(……おめでとう、ルキア、ヴィート)

 本当によかった、とフォシアはまだ涙ぐんだ。
 ――今日この場に至るまで、信じられない出来事がいくつもあった。
 そしてそれはフォシアが発端となったことで、ルキアはヴィートとの婚約を破棄し、自分の代わりに神殿入りしようとまでした。

 フォシアはただ泣いてうずくまるばかりで、何もできなかった。
 大丈夫よ、とルキアになだめられ説得され、昔からそうだったように、姉が道を切り開いてくれるのを待っているだけだった。
 ――もしルキアがあのまま自分の身代わりになって神殿に入っていたら、取り返しのつかないことになっただろう。
 フォシアは自分自身を許せず、きっとヴィートも自分を決して許さなかったに違いない。
 ――そんなことにならなくてよかった、とフォシアはまた胸の中でつぶやいた。

 ルキアが犠牲にならず、ヴィートが引き戻してくれて本当によかった。しかも二人は、まだ自分を助けてくれようとしているのだ。

 晴れた空の下で祝福の声が飛び交い、フォシアもその一部になりながら、一筋の濃い影のように罪悪感が心にかかるのを感じていた。

 ――どうにかする、とヴィートは言ってくれた。
 そうあってくれればいいとフォシアも強く願っている。実際、いまエイブラたちからの接触はない。あれほどしつこく、不快な湿り気のように日々にまとわりついていた彼らの気配がなりをひそめている。
 ヴィートが手を打ってくれて、それが効果を出しているのかもしれない。
 だが、相手はあの大富豪にしていまや大神官でもあるエイブラとその息子アイザックだ。
 このまま引き下がってくれるだろうか――フォシアにはそんな不安が拭えなかった。

 

 すべての発端は、アイザックという男がフォシアに声をかけてきた日にさかのぼる。
 アイザックという男は、社交界ではちょっとした評判になっていたらしい。それも、悪い方の意味だ。
 フォシアがそれを知ったのは、実際にアイザックという火の粉が降りかかってきたときだった。

 アイザックはいまをときめく、あの大神官エイブラの息子。フォシアが事前に知っていた情報は、その程度のものだった。顔も見たことはないし挨拶を交わしたことさえもない。
 アイザック当人から声をかけられるまで、その存在さえ意識したことさえなかった。

『あなたが“陽光の天使”か。こうしてお会いするのははじめてだな』

 ある夜会で、そんなふうに声をかけてきた男がアイザックだった。
 少しくせのある栗色の髪は柔らかそうで艶があったが、肌を光らせる脂が過剰で腹回りの肉は誤魔化せず、やや垂れ気味の目と締まり無く笑う口元に陰湿さが漂っているようだった。

 落ち着いて話さえすれば穏やかな人物に見えそうなのに、真逆のものが漂っている。フォシアの第一印象はそれだった。

『既にご存知かもしれないが、私はアイザック。いまは一番通りの家に住んでいる』

 男は、さも機知に富んだ冗談を口にしたというような得意げな顔をした。アイザックというよく聞く名前、家名も名乗らず、けれど一番通りに住むアイザックといえばあとは誰もが察するというように。

 一番通りは都内でもっとも高価な通りで、名家や相当な資産家たちが住んでいる。
 名家か資産家の息子らしい――ということだけがそのときのフォシアにわかったことだった。
 名のある貴族、裕福な家の御曹司に声をかけられることはこれがはじめてではない。だから、一番通りのアイザック・・・・・・・・・・に話しかけられたところで、対応はいつもと同じだった。

 控えめに、礼儀と愛想を適切に保った微笑を浮かべた。それは相手に特別な何かを与えるものではなかったし、勘違いをさせるようなものでもなかった。

 しかし、アイザックはそれに不満を抱いたようだった。
 その後、あからさまに自分の父親は大神官のエイブラであると伝えてきたが、フォシアの対応が変わることはなかった。

『今後は近しいお付き合いをお願いしたいものだ。ぜひお見知りおきを、天使殿』

 半ば強引に手を取られていわれ、甲に湿った唇を落とされたとき、芋虫の這うようなおぞましさを感じた。
 フォシアはかすかに身震いし、振り払わないようにするよう自制するのが精一杯だった。投げかけられた言葉とは対照にこの男とはかかわらないようにしようと強く思った。
 ――アイザックという男の正体を知らないなりに、どこかおそろしい予感があったのかもしれない。

いいね
シェアする