婚約破棄された令嬢は、灰の貴公子に救われる1

「君との婚約はなかったことにさせてもらう」

 男はことさら低く突き放すような声で言い放ち、冷ややかな目でフォシアを睥睨した。
 熱心な愛の言葉を吐いていた口からもはや熱を感じることはなく、ひたむきにフォシアを見つめていた瞳はいま、一転してかすかな嗜虐の色を宿し、相手が傷ついている証を少しでも探そうとしているかのようだった。

 そもそもこのように、直接会ってわざわざ婚約破棄を告げるなどいかなる意味があるのか。相手の傷つく反応がみたいという、歪んだ思いの表れでしかない。

(……ばかな人)

 フォシアは顔には出さず、ただそう思った。男の期待する、傷ついた令嬢はここにはいない。
 ――この男もまた、身勝手なその他大勢にすぎなかった。

 

「……大丈夫か?」

 短く、少し不器用な声にフォシアははっと意識を引き戻した。
 テーブルの向こうに、物言いたげな眼差しをした青年がいる。フォシアが誰よりも見慣れていて、対面していて体が強ばることのない数少ない異性――ヴィートだ。

 穏やかな午後の、静かな茶会。
 つい物思いに耽っていたフォシアは、いまここ――そう広くはない室内に何人もの令嬢令息がいて、穏やかな会話を楽しめる希有な茶店の場に引き戻された。

 中堅貴族の令嬢たるフォシアと同格の令息ヴィートがこうして会っているのは、何も艶めいた理由ではない。ただ二人きりで話す、かつ人の目がある場所という条件を満たす場所がここというだけだった。
 ここの茶店の店主は寡黙で、訪れる人間についてとやかくいわず――そのぶん口止め料・・・・としてあらゆる茶と茶菓子に上乗せされている――進歩的な・・・・関係を好む男女のための場所としてよく使われている。さすがに伝統を大事にする上流階級の人々の顔はあまり見ないが、そうでなければ舞踏会や夜会につぐ気軽な出会いの場所だった。

 そもそもフォシアとヴィートとの付き合いは長い。それこそ家ぐるみの付き合いだ。だから、ヴィートがフォシアの家に訪れてもうるさくいわれないし、年頃の男女であってもこうして二人にさせてくれる。
 妙な噂になるのではとフォシアのほうが少し心配になるほうだが、二人きりでないと話せないこともあり、またヴィート相手にどうにかなる・・・・・・心配などは欠片もなかった。
 ヴィート本人が、そんなことをまったく考えていないのだから。
 
 鮮やかながら深みのある赤毛に、落ち着いた榛色の双眸を持つヴィートは、ひいき目なしに端整な顔立ちの青年ではあった。

「体調は悪くないわ」
「……いや、そういうことじゃない」

 ヴィートは高い頬骨の下を気まずげに指でかく。引き締まった体つきに恵まれた身長、名実ともに立派な青年の姿をしているのに、ヴィートはところどころにこういう子供っぽい仕草を残している。
 フォシアが彼に親しみを抱けるのは、それも理由の一つなのかもしれなかった。

 少し遅れて、フォシアはようやくヴィートの言葉の意味を理解した。

「婚約破棄のこと? 私なら大丈夫。もともと……個人的には何もない関係だったもの」

 フォシアは気負うでもなく、さらりと言った。
 そうか、とヴィートは短く答える。
 君を振るなんて愚かな男だ、などと軽率な言葉をヴィートは口にしない。そういうところも、フォシアがヴィートを好ましく思う点の一つだった。――ほんの少しだけ、ヴィートにならそんな言葉をかけてほしかったような気もした。だがすぐに胸の奥に押し込める。
 実際、フォシアはつい先週まで婚約者であった男のことをこの瞬間まで忘れていた。

『――慈悲深い人。あなたの美しさを輝かせるのは、その寛容と慈悲なのだな』

 はじめはそんな浮ついた台詞で賞賛していた元婚約者も、最後には真逆の言葉にかえてフォシアを見下した。

『慈悲深いのは結構だが、節度というものを弁えたらどうなんだ。姉、姉、姉と……子供でもないだろうに』

 いかにも不服そうな顔をした元婚約者は、やや不器用な少年めいたところのあるヴィートよりももっとずっと子供じみて、幼稚でさえあった。

 姉――ルキアに親しみを感じていることの何がいけないのか。何があそこまで元婚約者を不快にさせたのか、フォシアにはわからない。
 ルキアより自分にまず話せとか、頼れとか言われたが、そんなことができるはずがなかった。
 元婚約者も――フォシアという人間を、外見だけで見て勝手に判断するその他大勢・・・・・の一人にすぎないのだから。

 フォシアは、見た目に恵まれているとと言われ続けてきた。
 蜂蜜色の瞳、白い陶器のような滑らかな肌、明るい金色の髪。薄く美しい色素で彩られた姿形は見る者に明るい陽射しを思わせるようで、“太陽”という単語を使って賞賛される。

 太陽という言葉から連想されるのは、正しさ、善、光、輝き――そういった華やかなものばかりだった。
 ――フォシア自身がどれだけそれに困惑し、厭い、重荷に感じても周りはそれをやめない。

 軽薄に見える金の髪も甘ったるすぎる色の瞳も、血色のない肌も顔の造作も、すべてフォシアが望んだものではない。
 なのに、それらは勝手に周囲の人間に人物像をばらまく。
 太陽のような人、輝ける笑顔、淑やかで理想そのものの令嬢、淑女の模範、社交界の華――。

 目を上げて太陽を見ようとすれば目を焼かれる。人は太陽という強烈な光源を直視できない。なのに、その太陽になぞらえたフォシアには異様な熱をこめた眼差しを向ける。

 あの婚約者だった男も同じだ。ぎらぎらした目で、身勝手な期待と理想の目で自分を見つめる。そして期待と理想が裏切られると勝手に失望し、責めるような目を自分に向けていた。

 知らず、フォシアは胸を抑えた。

「……フォシア、大丈夫か?」

 ヴィートがまた、気遣わしげな声をかけてくる。フォシアはなんとか微笑をつくり、大丈夫、と答えた。

 ――周りの勝手な期待と視線のことを考えると、いつも息苦しくなる。
 だから、考えてはいけない。

 突き刺さるような視線のことをなんとか頭から追い出して、目の前の相手――ヴィートだけに意識を集中させる。

 ヴィートは、他の異性のような目でフォシアを見ない。
 息苦さが和らいでいく。

(……みんな、ヴィートのような人ならいいのに)

 フォシアはひとり心中でつぶやく。ヴィートは一緒にいて苦しくない。はっきりと真正面から見つめられてもおそろしくない。

 ヴィートなら――長く一緒の時間を過ごしても、苦痛ではない。

 ぼんやりとそんなことを思って赤毛の青年を見つめていると、彼はどことなく気恥ずかしそうに身動ぎした。

「それで、その……ルキアの好みについてなんだが……」

 ぽつりとそう切り出されたとき、フォシアはなぜか小さく頬をはたかれたような衝撃を受けた。
 それからかあっと頬が熱くなり、とっさに目を伏せた。

(……何を考えているのかしら)

 一瞬でも、なにか不埒な考えを思い浮かべてしまった。そんなことを考えないようにしていたのに。
 ヴィートのことは好きだ。だがそれは親族や友人に向ける親愛であって、それ以上のものではない。それ以上のものであってはならないのだ。

 ヴィートは、ルキアの婚約者だった。

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