――何もかもが、目まぐるしく過ぎた。
あまりにも幸せすぎて、グリシーヌはときどき不安になる。
自分は突然、甘く幸せすぎる夢の世界に入り込んでしまっただけで、あるとき目が覚めるとすべてが消えてしまうのではないかという不安だ。
オリヴァーは“夢のような”貴公子だから。一時の、甘く幸せな夢を見せてくれる人だから。
でも、夢のような貴公子は自分の夫となった。
夢ではなく、ともに現実を歩んで行く伴侶に。
それにいま、この目の前にある光景は、夢よりももっと甘く輝かしくて、夢に見たくても想像すらできなかったものだった。
グリシーヌは純白の婚礼衣装に身を包み、オリヴァーの腕に手をかけながら教会を出た。
まばゆい光が、祝福の声をあげる人々を照らし出す。
目元にハンカチを当てて喜ぶ母、笑顔の父。桃色のドレスで今日も一段と美しい自慢の妹は、笑顔を浮かべながらもかすかに目元を光らせている。
グリシーヌの胸はいっぱいになった。目の奥が熱くなって、こぼれそうになってしまう。
世界は輝いていて、目眩がするほど幸福に満ちていた。
ふと、オリヴァーが耳元に顔を寄せた。
「これでようやく確かめられますね」
自分にしか聞こえぬささやき。グリシーヌは少し驚いて瞬きをする。
「何を……ですか?」
小声で聞き返し顔を向けると、オリヴァーが微笑する。
グリシーヌがつい見とれてしまう、親しいものにだけ向ける笑みだ。
眼鏡の向こうの瞳が、猫の目のようにきらめく。
「あなたの目の色が、寝台の中ではどんな色になるのか」
グリシーヌの耳元で、夫となった人はそうささやいた。
花嫁は一瞬藤色の目を見開き――一気に涙が引っ込んで、瞬く間に顔を薔薇色に染めた。
◆
今日は人生最良の日だ。
オリヴァーはかつてない満ち足りた気持ちで、グラスを片手に花嫁を眺めた。
少し離れたところで親類と話をしているグリシーヌは、純白のドレスがこの上なく似合い、輝けるような美しさを放っていた。
なんといっても、あの薔薇の天使の姉なのだ。美しくないわけがなかった。
天気にも恵まれ、神々しい陽光が新たな門出を祝福している。
こんな気持ちで自分の婚礼を迎えられる日が来ようとは思ってもみなかった。
「このたびはおめでとうございます、オリヴァー卿。いえ、お義兄さまとお呼びすべきかしら」
淑やかな声にそう呼びかけられ、だがオリヴァーはぴくりと眉を動かした。
既に反射の一部となった外向きの微笑を張りつけ、振り向く。
陽光に金の艶を放つ、豪華な赤毛の令嬢がそこにいた。
グリシーヌの妹、ロジエである。
愛想が良く品位に満ちた、完璧な微笑を浮かべている。まったく隙がない。
――ゆえに、オリヴァーはこれが作り笑いだとすぐにわかってしまう。そしてこの種の笑いを浮かべられる人物が内心でどう思っているかは、容易に想像がついた。
自分と同じ種類の人間だからだ。
だがいまのオリヴァーには、多少謙虚な気持ちがあった。
「ありがとう、ロジエ嬢。このたびはあなたに多大なるご迷惑をかけてしまった。深い理解と寛容を示していただき、感謝の言葉もない――」
「構いませんわ。破談に関してはむしろこちらから御礼を申し上げたいくらいです。やはり私には……結婚など、どうも性に合いませんもの」
一瞬だけ、ロジエは清々しい顔をした。
それは、世間で言うところの、婚約者を姉に奪われた悲劇の女性――ではありえない。
「あなたのことは嫌いではありません。話のわかる方のようですし、義兄になっても許してあげます」
「……そうですか」
オリヴァーは苦笑した。
この妙に小気味よく傲慢気味な物言いは、不思議と腹が立たない。
以前、婚約者として多く接し会話を重ねる間に、ロジエという女性もまた世間でいうところの薔薇の天使などではないということがわかった。
完璧な淑女というのは、仮面だった。だがその仮面の下の素顔は、意外にもオリヴァーにとって好ましく感じられるものだった。
ロジエもまた、恋愛感情ではないが、自分に一定の信頼を寄せてくれていたのだと思う。
それは性別や年齢を超えた友情のようなものに似ていて、ロジエとなら比較的まともな結婚ができるのではないか――と思えたほどだった。
実際、グリシーヌへの想いを自覚しなければ、そのまま結婚していただろう。
「――ですが、勘違いしないでいただきたいのですわ」
大輪の花を思わせる微笑を張りつけたまま、ロジエがばっさりと切り捨てるように言った。
オリヴァーは完全に不意を突かれて一瞬硬直する。
ロジエが一歩距離を詰めてくる。
頭一つ分は小さな令嬢に、オリヴァーはなぜか気圧されそうになる。
他の人間から顔の見えぬ位置に立って、ロジエは愛想の良い笑みを消した。
代わりにひどく刺々しく挑戦的な微笑が浮かぶ。
「いいこと? 私から姉様を奪うからには、生涯かけて守り幸せにすると誓いなさい。姉様を泣かすような真似をしたら許さないわよ」
薔薇の天使は一段低い声で言った。
オリヴァーは束の間声を失った。
薔薇の天使の変貌に目と耳を疑う。
――そんなことはありえない、と反論しかけた。
だがロジエの口調は、遮ることを許さなかった。
細く白い指が、一本の大きな棘のようにオリヴァーの胸に突きつけられた。
「もし一度でも姉様を悲しませたり傷つけたりしたら、一切合切むしりとって社会的に抹消してやるから。……心に刻んでおくことね、お義兄様」
薔薇の天使は、貴公子たちを虜にすると評判の笑みを浮かべて言った。
あらゆる意味で、見る者の言葉を奪う顔だ。――半端な反論さえも。
「……心に刻んでおきます」
オリヴァーは賢明にも、それだけ答えるに留めた。
ロジエは小さく鼻を鳴らすと、そう、とだけ返し、くるりと身を翻して去って行く。
“薔薇の天使”の由来――金色の艶を放つ見事な赤毛が目を射る。
(……誰だ、薔薇などと称した愚か者は)
オリヴァーは苦々しい気持ちでそうつぶやく。
あれは、薔薇などという可愛いものではない。棘を持っているなどという生ぬるいものではない。
うかつに藤色の目の天使に触れようとしたら火傷させられる――。
(燃え盛る火じゃないか)
オリヴァーはつい、そんなことを思うのだった。