フォシアははっと顔を上げる。
青年の目は真っ直ぐだった。これまでに向けられたどんな眼差しよりも、涼やかで――澄んでいた。
「私に言える言葉ではありませんが……。でも、あなたは勘違いをなさっている。本当に卑怯で甘えることしかしない人間は、そんなふうに自分を責めない。……あんな目で、姉とその夫を見ることもしないはずだ」
フォシアは唐突に胸を刺されたような衝撃を受けた。
あんな目、というのが、先日のことだとなぜか理解できた。友人との茶会を中座して帰ってきたとき――ヴィートとルキアの親密さに打たれたとき。
取り繕う間もなく、グレイと目が合ってしまった。
「あなたの目にあったのは嫉妬や憎悪ではなく、苦しみと悲しみでした。それは、卑劣さや身勝手から生じうるものではないのです」
そう静かに告げられたとき、フォシアは息を止めた。
見られたという羞恥が、何か別の熱へ変わる。その熱が目の奥を潤ませ、慌ててうつむいた。震える唇を引き結ぶ。
こんな――こんなふうに自分を真っ直ぐに見て、善意に解釈してくれる人を知らない。ヴィートやルキアにすら押し隠していた暗い気持ちなのだ。
でも、とフォシアの中の臆病が、震える声で反論させる。
――自分のためにルキアが神殿に向かったのに、止められなかった。
いつものようにルキアがなんとかしてくれると思っていた。
いやになるほど卑怯で弱い自分。なにもできない臆病な自分。
「……フォシア嬢」
グレイが、抑えた声でフォシアの途切れ途切れの言葉をさえぎる。
そして優しく被せて言った。
「あなたは自分を抑え、身を引いている。苦しみも嫉妬もすべて抱え込んだ上で。誰にもわかりうる勇敢な行動だけが、勇気と呼ばれるものではない。家族を思いやり、苦悩に耐えて己を律する……それもまた、勇気と言わずして何というのですか」
――あなたは卑怯な人間などではない。
冷静に、けれど静謐な力強さを感じる声でそう告げられたとき、フォシアの喉は震えた。
勇気。
自分が持っていないはずの、持ちたかったものの名前。
そんなはずはない、と心がとっさに反発する。だがグレイの声の不思議な強さが、胸の奥深くにまで染みた。
ずっと隠していた醜い気持ち、後ろめたい感情――それを、確かに受け止められたような気がした。
こらえていたはずのものが目の奥から決壊する。やがて堪えきれず、声を漏らして泣いた。
グレイはただ黙ってそこにいた。どんな空虚な慰めを口にするでも、虚栄に満ちた態度を取るでもなく、正面に座ったまますべてを受け止めるようにそこにいた。
ひとしきり泣いたあと、フォシアはハンカチを口元に当て、泣きはらした目を伏せた。
「……ごめんなさい。ひどい醜態をさらしてしまいました」
隠しようのない鼻声で言うと、いえ、と短い答えが返った。
少し歯切れの悪い響きがあり、フォシアは気まずい思いでおずおずと目を上げる。
青年の目と合う。
すると、グレイは少し瞬きをしたあと、視線を迷わせた。
「申し訳ありません。泣いてる女性にどう対応したらいいか……その、わからないもので」
常の冷静で鋭い弁舌とはかけ離れた、ためらいがちの調子だった。
フォシアは意表を衝かれたあと、頬を少し赤くした。
「こ、こちらこそごめんなさい。こんなふうに人前で泣くなど……」
「……いえ、感極まって涙する女性は多くいます。それが悪いなどということはまったくありませんし、私も対応がまったくできないというわけでは。ただ……」
グレイはぽつりぽつりと答える。
その声の調子がどことなくヴィートの口下手なところに似ていた。
フォシアは一瞬状況も忘れて意外の念に打たれていると、彼は顔を少し背け、口元を手で覆った。
「その……あなたが相手だと、どうにも」
冷静なはずの青年は、戸惑いを露わにしていた。
フォシアはぱちくりと目を丸くする。あの小憎らしいほど冷ややかなグレイの素朴な一面に、涙も引っ込んでしまう。
『あいつもああ見えて結構不器用なところがあるんだ』
かつてのヴィートの言葉が急に、強い実感を持って蘇ってくる。
「わ、私が……」
フォシアもまた驚きのせいで、とっさにグレイの言葉を反復していた。
――私が相手だと、どうだというの。
フォシアという人間が相手だと、他の――他の女性とは、何か異なるというのだろうか。
他の女性よりも美しいなどと、辟易するほどの熱心さで賞賛してくる異性は数多くいた。
けれどいま、このグレイのようにためらいや困惑を見せる相手はいなかった。だから、わからない。グレイはなぜこんな反応をするのか。
相手のためらいが伝染したかのように、沈黙が落ちる。それは少しの気まずさを含みながらも、なぜか、フォシアは息苦しさを覚えなかった。
この場に着いてから生じた沈黙とはまた色合いが異なる。緊張はしても、警戒はなく、身構えることもない。
互いに、何か手探りしあっている――そんな気がした。
「……お戻りになりますか」
グレイのぽつりとした一言が、沈黙を破った。
フォシアははっとする。
「息抜きと謝罪のためにお連れしたわけですが、どうも……私はあなたを不快にさせてばかりのようだ」
「! そ、そんなこと……!」
フォシアは大いに驚きながらも、慌てて頭を振った。
――グレイは、一体どうしてしまったのだろう。
強引に連れ出されたかと思えば、ためらいがちに帰宅を提案してくる。
急に、目の前にいる青年に不器用な少年の姿が垣間見えたような気がした。
「ふ、不快になど……なったりはしていません」
フォシアはかろうじて、そう返した。
それは自分でも少し驚くほど、素直な思いだった。異性と二人きりで相対すれば息苦しさを感じ、一刻も早くその場から逃れたいと思うばかりだったのに。
ましてグレイのように鋭く心を見透かしてくるような相手はおそろしいとさえ感じていたのに――。
いま、グレイとこの場で過ごすのは苦痛ではなかった。すぐに帰りたいとも、思わなかった。
だが言葉少ななフォシアの態度をどう取ったのか、グレイは真摯な表情になると、家までお送りします、と言った。
フォシアはまだ困惑したまま、促されて席を立った。先導されて門まで戻ると、ふいにグレイがこぼした。
「あなたを泣かせたとあってはルキア嬢のお怒りを買うでしょう。が、甘んじて受けます」
真摯にそう言われて、フォシアはきょとんとした。グレイは真剣だったが、その言葉の意味を理解すると、まるで他愛のない悪戯を神妙に反省する子供に見えてしまい――無意識に口元が緩んだ。
「ジョーンズさんのせいではありませんもの。ルキアはちゃんと話を聞いてくれますから、その心配は杞憂ですわ」
何気なくそう答えると、グレイが涼やかな目を小さく見開いた。
長く、だが色の薄い睫毛が一度だけ瞬いたあと、ぽつりと言った。
「――あなたは、美しい人だな」
唐突だった。
え、とフォシアは思わず声をあげる。そのまま硬直すると、その反応に今度はグレイが驚いているようだった。その怜悧な目元に、ふいに淡く朱色がのぼる。
だがすぐにグレイは顔を逸らし、行きましょうとだけ言った。
フォシアもまた、うなずくのが精一杯だった。鼓動がなぜか速くなり、そんな自分にためらう。
(な、なに……?)
これまで何度も聞いた類の言葉。むしろ、その中ではあまりに素朴にすぎるものだ。
――なのになぜ、こんなに頬が熱くなっているのだろう。
それから、少しの間平穏な日々が続いた。事態が硬直しているだけであるのかもしれなかったが、フォシアは自分でも楽観的になっているのを感じた。
ただ漠然と不安を抱き続けることに辟易(へきえき)したというのもあるのかもしれない。
だが、他の考え事ができたということが大きかった。
あまり感情をあらわにしない、涼やかな顔の青年のことをよく思い出すようになった。 冷静すぎるほど冷静で、ゆえに酷薄な人物とさえ感じていた。しかしいまはもう、そうは思えない。
思い出すのはただ、どこか不器用に言葉を詰まらせて顔を背ける、素朴な横顔だった。
それからまっすぐに自分を見て、美しいとこぼした声――。