傲岸たる女王のように、少女――ソインは言い放った。
けれどその凛とした声には聞き覚えがあった。
時折、海の向こうから聞こえた歌。あの主だ。
シンは何かを答えようとして、目を瞠った。
声帯を震わせようとする。音を押し上げようとする。なのに、出来ない。
そのたびに裂かれるような痛みと吐血を伴った咳が出た。
愕然とする。
――声が、出ない。
足もとが突き崩されたようだった。
全身に震えがきて、シンは膝を折った。
けたたましい足音がいくつも重なり、近づいてくる。混乱した思考とは離れ、シンの聴覚は近づいてくる音を正確に捉えていた。
耳をつんざく、金属の摩擦音。
「女神の血脈を乱す異端め! “悪魔”をどこへやった!」
甲冑の男の一人が、唾を飛ばす勢いで叫ぶ。
シンはゆっくりと顔をあげた。複数の、怒り狂った雑音がする。
押し寄せる圧倒的な敵意が、鉄槌となって胸を押しつぶそうとする。
「言え! “悪魔”はどこだ!」
甲冑たちは耐えきれぬといったように距離を詰める。
そのぶんだけシンは後退した。喉がひゅうひゅうと音を立てる。現状が理解できない。
甲冑の群れが草のように割れ、少女――ソインが歩み出た。
「声を、失ったのね」
厳然たる声で、ソインは言う。
シンは、その意味を理解できなかった――理解したくなかった。ただ、つい先ほどまで当たり前のようにあったものが、見えない何かに引きちぎられてしまった。
「お願い、“悪魔”の居場所を教えて。強く思うだけでわたくしに伝わる。あいつは、悪いやつよ。あなたやわたくしの仲間を殺したし、これからもそうしようとしている」
シンは頭を振った。
“悪魔”――エスのことだと理解した。
確かにエスは自分の意志で導き手を、係累をその手にかけたのだろう。エスには復讐すべき理由がある。それが正しいとか悪いとかじゃない、ただしたいようにしているだけだ。
それに――自分には、導き手の同胞とやらのほうがよほど信用できない。
エスのほうが近くにいた。エスのほうが優しかった。エスのほうが温かかった。
それが、すべてだ。強い意志をこめて、睨み返す。
「…庇うの? あなたにとって、そいつは…」
どんな音色として響いたのか、ソインは眉間に深い皺を刻んだ。その背後から、一人の青年が歩み出る。
「僕はイドという。彼の、エスの友人だ。これ以上、彼が罪を重ねるのを見たくないし、彼を殺したりはしない。彼を、止めたいんだ」
演技ではない、切実な声色にシンは微かに揺らいだ。今にも縋ってきそうな、まっすぐな瞳。エスの友人だというのも真実であるような気がした。
シンは困惑した。声は封ぜられ、心に強く思わない限りは鉄壁の沈黙のままだ。
撫でつけられたような静寂が落ちた。
だが、やがて見えない亀裂が入ったかと思うと、一気に弾けとぶ。
しびれを切らした兵士たちが駆けた。
「“悪魔の手先”め…!!」
一様に叫んで、槍を、刀を、弓を構える。ソインの、透き通った制止の声がした。
シンは身をひるがえした。けれど逃げ場はない。ここは塔の屋上。腰上あたりまでの手すり、その向こうは海だった。
慌てて向き直る。刃の切っ先が、銀の蛇のように見えた。
身体がすくむ。
ぎゅっと目を閉じたとき――光がはしった。
動揺とうめきが唱和する。その場を洗浄するかのような一閃。
やがてそろりと目を開けたシンの頭上から影が落ちた。ふわり、と黒のマントが着地する。
死を告げるという、黒い鳥。
シンは、信じられないものを目の前に身体が震えた。名前を呼ぼうとしたのに、声が出なかった。
全身を黒の外套で包んだエスは、シンのすぐ目の前に立って前方を睨みつけていた。すらりと光る細身の剣を、隙なく構えている。
「怪我はないか、シン」
振り向かずに言った。シンは空回りする唇を動かし、噛んで、頷いた。
「…声が?」
何も言えないことに察したのか、エスは短く問う。
シンは、肯きで答えた。目を合わせなくても、ふいに蘇る声が、ひとつの思考をはじき出した。
――マリアと同じ病気。
普通の“導き手”より遙かに毒素に接する時間が長いのなら、なんら不思議ではなかった。それが今――声というもっとも重要な器官を奪って、代わりに病魔として巣くったのだ。
閃光から解放された兵士たちはその姿を見つめると息を飲んだ。
距離をつめかね、硬直、あるいは一歩後退する。
イドだけが、顔色を変えて足を踏み出した。
「義兄さん…!」
「一度ならず二度までも。お前はどこまで俺たちを裏切れば気がすむ?」
「違う! 俺は、あなたがこれ以上罪を犯すのを見ていられない…っ!」
「黙れ!」
エスが爆ぜ、地を蹴った。距離が詰まる。
一瞬遅れて反応した兵士たちが、怒声をあげて立ちはだかった。
「退け!」
一喝とともに、細身の刀を横になぐ。まるで見えざる大剣で弾き飛ばされたように兵士たちが地に倒れた。
「下がって、ソイン!」
イドもまた剣を抜くと、ソインをかばって前に飛び出した。
剣と剣がかみ合う音が響く。一歩も譲らず、また逃さない。
二人は計算された殺陣を演じているようだった。剣撃の応酬が繰り広げられる。
だが正気を取り戻した兵士たちが押し寄せ、拮抗が崩れた。
イドは同士討の恐れによって剣を封じられ、逆にエスには的が増えて縦横無尽に剣をふるった。
踏み込んで薙ぐ。振り下ろされた剣の残像。バックステップで黒の外套の裾が翻る。
シンは息を飲んだ。
――強い。
その殺意、敵意が向かう先に、ひやりと胸が冷たくなった気がした。
イドと呼ばれた青年に庇われた少女――ソインを狙って、エスは死へのステップを踏む。
木偶人形のように押し寄せる兵士たちをなぎ倒し、距離を詰める。
防いだイドの剣とエスの剣とが邂逅を果たし、歓喜に似た高い摩擦音をあげた。
抉るようにエスの刃が滑り、一瞬の隙を逃さず力を叩きつけると、イドの重心がわずかに揺らいだ。
とっさに立て直すも、真正面から押され、重心が崩される。
イドは顔を歪めた。
「誰がお前に剣を教えたと思っている?」
エスは冷やかに答え、眉ひとつ動かさなかった。
「イド!」
青ざめたソインが叫ぶ。だがぎゅっと唇を引き結んで援護のために詠唱しようとする。
瞬間、エスの矢のごとき眼差しがソインを射抜いた。
刃を大きく振り払ってイドをかわすと、返す刃でソインに切りつけた。ひっ、と喉の奥で悲鳴がつまったかと思うと、ソインの体は毬のように床にたたきつけられた。
震えながらなんとか身を起こそうとしたところへ、ひやりと首筋が冷たいものに触れる。
一連の動作は優雅な指揮のようにすら見え、銀の刃がきらめく光でシンはようやく意識を取り戻した。
胃のあたりに冷たく重いものがねじこまれるように感じ、駄目、と叫ぼうとする。だがあまりの喉の痛みに顔をしかめることしか出来なかった。
「やめろエス…っ!」
「動くな。首を刎ねてもいいのか」
振り向かず、ぴしりと鞭打つような乾いた声だった。イドは血を吐くようにうめいて、動きを止めた。
上半身をなんとか起こしたまま、ソインはがくがくと震えていた。首筋にあたる刃は、まぎれもない殺意を宿して、ひどく冷たい。
「お前が最後だ。現代の導き手ソイン」
「…っ、ま、ちなさい! なんの恨みがあってこんな…!」
とたん、エスが喉の奥で低く笑った。
「本気で言っているのか? お前たちは、誰かから奪うことになんの意識も向けはしないか?」
笑みがかき消え、絞り出す低い声に、ソインは絶句した。
“導き手”。救うもの。尊き女神の血脈。すべてを与えられることを許されたもの――奪うことすらも。
それが、当たり前だと思っていた。奪われたもののことなど知らずに。
「イド、お前が本気でマリアを愛していたというのなら、あいつを殺した“導き手”たちを一度でも、一瞬でも恨まなかったか?」
イドが身体を震わせるのを、ソインは衝撃と共に認識した。足元が瓦解し、冷たいものを全身で浴びたようだった。熱がひいてゆく。
それでもソインは震えながらかぶりを振った。
わたくしじゃない、と言おうとして、出来なかった。刃の紫電が一瞬だけ視界の端にきらめく。
「殺しはしない――だが二度と声を出せなくしてやる」
風を裂く音が響いた。