海の向こうから聞こえてくる歌声は、おそらく自分と同じぐらいの少女のものだ。
けれど自分とはまったく違う。声には自信と余裕が満ちて、歌う喜びが溢れている。
鮮明でよく響き、誰にもひとしく降り注いでいる。
いつもは、女神を讃える歌だったり練習用の民謡だったりするのに、ここ最近は違った。見知らぬ誰か――おそらく青年――を讃え、鼓舞する新しい歌だった。
大陸で、何があったのだろうか。
心臓がはねた。内側で何かが狂おしいほどにもがき、やがて肋骨の檻を破っていきそうだった。
歌いたい。喉の奥まで、旋律が出かかっている。
向こう側の少女には許されて、なぜ自分には許されないのか。
こらえきれず、唇を噛む。かすかに、鉄の味がした。
こみあげてくるものを押し込めて空を仰ぐ。
目まいがするような、晴天だった。鳥たちが飛んでゆく。
ふいに、その影が近付いてきたように思えてシンは眼を細め、手で光をさえぎった。
妙に胸が騒いだ。さまざまな可能性を考えて、一瞬ぞっとする。
もしや――『汚染』の境界が狭まったのか。この孤島は、おそらくもっとも境界に近い。
言葉の説明はなかったものの、身体に宿る“女神”の血がそうさせるのか、シンには汚染の動きを感じ取ることができた。
感覚を研ぎ澄ます。
もし汚染が迫っているのなら、空間が黒ずんで見えるはずだ。
そしてそこに生物が入り込めば、黒いかびのようなものに侵食されとたんに命を奪われる。
けれど空をとぶ鳥に異変はなく、視界でも黒ずみはとらえられなかった。
汚染では、ない。
安堵に変わろうとしたとき――ふいに、頭上に大きな影が落ちた。
背後で、重い何かが叩きつけられるような音がした。
シンは体を震わせ、振り向いた。とっさに後退する。
けれど、その落ちてきたものがなんであったのかを認識して、大きく目を見開いた。
「人…?」
つぶやいた声が震えた。
全身を黒の外套で包み、額から血を流して青年は痛みにたえるように顔をしかめていた。外套はところどころ裂け、赤の滲んだ皮膚が見え隠れしている。
鉄の臭いが漂うような生々しさに、シンは思わず震えた。
けれどすぐに思い直し、駆け寄る。
「しっかりして! 誰か…誰か!」
横たわった男の、時折苦痛にうめく顔をシンは落ち着かない気持ちで見守った。
呼びつけた世話人たちが突然の訪問者に大層おののき、捨てるようにと言ったが、なかば脅すようにしてシンは男を介抱した。
広い自分の部屋のベッドに運び込んだあと、世話人たちを追い払って自らの手で看病した。
幼いころ――まだ導き手として育てられていたころ、声楽のみならず言語や医療の教育も受けた。
導き手は、その名にふさわしく人々の頂点に立ち、救うための術をできうる限り身につけなければならない――確か、そんな言葉を聞かされた気がした。
男は血まみれだった。
身体のいたるところに傷を負っていて、致命傷ではなかったものの、手当をしたあとは熱がひどく上がった。
にじむ汗を拭ってやって、唇の色を見ては水を飲ませた。
そんな状態が二日続いて、熱がようやくおさまりはじめた。
うとうととまどろんでいたことに気づいて、シンは目をこすった。
窓の外はまだ明るい。昼を過ぎたぐらいの時間だろう。海鳥の鳴き声が聞こえる。
視線を落とすと、いくぶんか安らかな顔で男が眠っていた。
(この人…向こうの世界からきたのかな)
瞼にかかる前髪をそっと払いながら、思う。
向こうの世界。海の向こうにある、普通の人間たちの世界。
なぜ、こんな怪我を負って、こんな孤島に来たのだろう。不思議でたまらなかった。
ふいにぴくりと男の瞼が震え、シンの鼓動ははねた。
男の眉がひそめられ、ゆっくりと目を開ける。焦点がぼんやりとしていた。
「大丈夫、ですか?」
ひらひらと、手を振ってみる。男は、弱い反応を示した。だがやがて、急速にその表情が変わっていった。
「わっ!?」
突然身体が反転し、背を打つ。シンは声をあげていた。
わけも解らず目を見開く。影が落ちた。
男が見下ろしていた。射抜くような冷たい瞳だった。首を抑えつけられていて身動きがとれない。
男が力をこめれば、窒息死してしまうだろう。
「誰だ貴様は。俺に何をした」
ぞっとするような冷たいテノールだった。憤り、警戒、焦燥――その抑揚、トーン。
「な、何をしたって…あなた、空から落ちてきたんだよ。血まみれで怪我してたから、手当したの」
息苦しい、と抗議しながらシンはむっとした表情を隠さなかった。
男を真正面から睨みつける。
「貴様…“導き手”か」
テノールに押し殺した焔が宿る。うめくようで、喉に何かがつまったような声だった。
シンは揺らいだ。
「あなた、関係者なの?」
男は怪訝そうな顔をした。シンは唇をかみしめ、だが屈辱をかみしめて答えた。ぎっと睨みつける。
「私は“落第者”。あなたたちが、一番知っているはず」
憤りをこめて言う。だが男は微動だにしなかった。
「…なんだ、それは」
「ごまかさないで。導き手の候補にして、かつてないほどの不適正をたたき出した落第者――詠唱禁止、流刑。あなたたちが、私をここへ追いやったんでしょう」
吐き捨てるように言って、シンは男と対峙した。
勝手に候補者にまつりあげられ、歌唱力を強化され、しかしその効果が自分たちの意に沿うものではいと解ったとたん、まるで罪人のような扱いをされた。
歌を愛するものにとっては死刑よりも重く、かつて誰も課せられたことのない“詠唱禁止”を。
思い出せば、対峙すればこらえきれないものが口を割る。
「ここは、どこだ」
首をしめつけていた手がわずかに緩む。シンは眉をひそめた。
「汚染との境界線近くの孤島。私の他には、数人の世話人しかいない――知ってるでしょう?」
男の瞳に思案の光が揺れていた。逡巡したしたのち、鈍い動作で腕をどかし、シンを解放する。圧迫感が急に消えて、シンは首をさすりながら軽くせきこむ。
「詠唱禁止とは、どういうことだ。そんな話は聞いたことがない」
男がぶしつけに問う。シンは困惑した。
「あなた、関係者じゃないの? どうして私のこと導き手って解ったくせに、落第者のこと知らないの?」
「質問してるのは俺だ。答えろ」
「そんな義務がないもの」
シンも負けじと言い返す。それから、まっすぐに見つめた。
「私は、シン。貴方は?」
男は眉をひそめ、苦虫をかみつぶしたような表情になった。
「じゃ、勝手に呼ぶよ。なんて名前がいいかな…」
様々な名前をあげる。
男は黙っていたが、やがて観念したように口を開いた。
「…エス」
いくぶんか和らいだテノール。その微妙な抑揚の変化は、シンにはよく感じ取れた。
「エスね。よろしく」
「そんなことより、質問に答えろ」
切り捨てるような物言いに、シンは眉をひそめた。だが溜息とともに発散する。
「私は確かに女神の血脈だけど、突然変異なの。ふつうの導き手が汚染に作用するのに対して、私のは人間に作用するんだって。つまり…人に、害を及ぼすの」
エスが、ますます眉間に皺をよせた。本当に、聞いたことがなかったのだろう。
だとしたら、なぜ自分のことを一発で導き手だと見破ったのかが余計に不思議だった。
すぐに、エスは低く笑い始めた。おかしくてたまらないというように。
その音程に現れるのは嘲笑、自嘲、軽蔑。
「――何がおかしいの」
「これが可笑しいと言わずして何が可笑しい? お前は突然変異などではない、本来の導き手の姿だよ。人にとって害でしかないものども。犠牲の上にあぐらを書いて、王を気取る傲慢なものどもの姿だ」
シンは眼を見開いた。未知の言語をぶつけられたように、理解がだいぶ遅れた。
一瞬、エスは向こうの大陸の人間ではないのか、とすら思った。首をかしげて、問う。
「…エスは、導き手が嫌いなの?」
今度はエスが目を見開く番だった。舌うちして、押し黙る。
だが言葉にせずとも、その呼吸の乱れから感じ取れた。はじめて感じる、剥き出しの憎悪、嫌悪――微かな、悲しみ。
シンは背が震えるのを感じた。
どうして、と聞くのは、なぜかためらわれた。
しばらくの沈黙がおりる。けれど、それは次の一小節を奏でるための必要な空白のようにさえ思えた。
シンにとっての「日常」に、違う音が紛れ込む――単調な楽譜に入る突然の揺らぎ。
それはなかば、確信のようなものだった。