恋した人は、妹の代わりに死んでくれと言った【1】

ー妹と結婚した片思い相手がなぜ今さら私のもとに?と思ったらー
書籍一巻 発売記念SS

そして、出会う

 道は暗く、他に何も存在しなかった。先の見えぬ闇の中、自分の体と踏み出す一歩分だけの視界が確保されている。それは、ロイドが夜目のきく体質であるという理由だけではなかった。
 他には己の呼吸だけが聞こえ、ロイドは奇妙なほど、自分の前方――進むべき道だけが感覚的にわかった。
 かつて何人もの《番人》が、この道を通った。ゆえに、その足跡が道無き道として感じられるのか。

 だがその考えは少々感傷がすぎるように思え、ロイドはそれ以上考えることをやめた。
 いかなる恐怖も怯えもない。――静かな高揚。戦意。
 自分の帰りを待っているという、翡翠の瞳をした王女の姿がよぎって消える。
 頭の隅で時を数えながら進む。

 ふいに、視界の端に明るさを感じた。
 ロイドはかすかに息を吐く。全身に力を漲らせ、外套の下、腰に佩いた剣を意識する。
 ――そうして、一気に駆けた。

 光に向かって走り、瞬く間に強さを増すそこへ飛び込む。
 束の間、強い風を感じたような気がした。向こう側へ押し返すような力。冷たく、だがどこか生温かい空気がたちまち体に吹き付ける。
 体でそれを押し返すように、ロイドは前のめりに疾駆する。不可視の壁を、そのまま突き破った。
 闇の名残が、煙のように体にまとわりつく。

 首と手足にはめた瘴気対策の装飾具が身震いする。首から上以外に露出している部分などなくとも、異界の空気は易々と貫通するようだった。肌に痺れが伝わる。人の体には毒とされる瘴気を、装飾具が防いでいる感覚のようだった。
 空気が、匂いが、音が、世界の明度が変わる。
 瘴気に満ちた空は暗かった。燃えるような夕日に薄い黒のヴェールを一枚被せたような、あるいは明ける寸前で止められた夜のような色合いをしている。
 視界に異界の姿を捉え――とたん、落下の感覚がロイドの体を襲った。
 
 地を埋め尽くす白。丸い、小さな花の蕾。その向こうに青黒い鉱石のような巨獣がそびえていた。
 否。うずくまる獣と見えたそれは、かつて見たこともないほどの巨大な樹木のようだった。

 ロイドは全身で警戒しながら、衝撃に備えた。
 落下の勢いを殺しながら、異界の地に着地する。大地を覆っていた蕾ごと土が弾けて舞い、丸みを帯びた白い蕾の残骸が雪のように舞った。
 ――鋭敏な器官と化した全身に、敵意や殺意は捉えられない。すぐに襲いかかってくるような魔物はいない。

 地を埋め尽くす白い蕾の中、ロイドはゆっくりと立ち上がる。
 そうして黄金の両眼をわずかにひそめ、巨樹と、それを背景にして立つ異形の姿を見た。

 一人の人間が立っていた。

 女にしては長身で細身で、その体を包む水色の衣は、縁に葉と実をかたどったような金の装飾がやけに精緻だった。
 わずかに見える首やその上の顔は抜けるように白い。細く高い鼻筋も、色の薄い唇も、この異界の光景にはあまりに浮いて見える。

 夜を思わせる艶やかな漆黒の髪が風になびき、場違いなほど白い蕾の群れの中で目立つ。
 ――見開かれた目は、ロイドを真っ直ぐに見つめ返していた。
 双眸は、色濃く鮮やかな藤を思わせる色だった。

 そこに、魔物にあるべき歪さ、醜さ、おぞましさがない。――ゆえに、それは一層歪とも言えた。
 人であるはずがない。ありえない。

(――魔女)

 記録に記されていたその言葉が脳裏をよぎる。
 そして、ラブラと交わした約束が谺した。

『もし……ウィステリア様の形をした、何かがいたら』

 女の姿をした何かは、その腕に黄金の柄と漆黒の鞘を持つ剣を抱いていた。
 それこそが、自分の求めるものだと悟る。

 ロイドは剣を抜いた。

 色の薄い唇は、何かをつぶやいたようだった。
 その意味をロイドは聞き取ることはできなかった。だが姿を模すことができる魔物なら、言葉や声さえも模すことができてもおかしくはない。
 ロイドはにわかに不快感を覚え、顔を歪める。

 しかし次の瞬間、あらゆる躊躇ごとそれを振り払って地を蹴った。

 目的はただ一つ。幸運にも、その目的がすぐ目の前にある。
 白い蕾が舞い散る。距離を詰める。

 紫の瞳が見開かれ、“ウィステリア・イレーネ”の姿をしたものが迫り――