澄白がかつてこの天空の地へ来る前、決死の覚悟が要った。
恐怖を抑え込むことに全力をつぎ込まねばならず、行く先にはおそろしいものばかりが待ち受けていると思っていた。
――なのに、この天空の地は、想像とは真逆の世界だった。
強く美しく寛大な竜たち。優しく愛らしい隣人たち。美しい空、豊かな森、大きな城――。
この天空の世界の姿が少しずつ見えてくるにつれ、緊張も恐怖も遠い日のことのように思えるようになった。
ここでは、澄白を嫌悪の目で見る者はいない。こちらの姿を見るたび、ひそひそと顔を寄せ合って悪意を囁く者もいない。
目を伏せながら足早に過ぎ去る必要も、たまに来てくれる幼馴染みの姿を切望し、依存することも、ない。
辰彌や詞菜に会えないことだけは少し寂しかったが、下界ではきっと二人が幸せになっているだろうし、自分がいないほうがいいのだ、と思うと諦めもついた。
この天空の世界でも土いじりをさせてもらうことはできた。ささやかながら育ててきた家の裏の薬草畑は焼失してしまったが、代わりに新しい畑をつくることができる。
周りは見たことのない植物ばかりだったから、一つ一つ手探りで調べてゆくのは楽しくもあった。土を均し、一から植物を育てていくのは楽しかった。
衣食住に困らず、土いじりもさせてもらえる。
――信じられないほど強く美しい竜の近くで暮らし、優しく聡明な少年の竜もいてくれる。
とても幸せなことだ、と澄白は思う。竜たちのこの天空の地は、自分にとって楽園のような場所だ。
そして衣食住や土いじりの他に、もう一つ、澄白には感動することがあった。
替えの衣と布を抱えて、澄白は歩く。足取りは軽かった。
土いじりの後のこの時間は、特に幸せなものの一つだ。
抱えた布の塊には小さな光がもぐりこんでいて、子供のように遊んでいる。《隣人》たちの無邪気な姿に、澄白は笑った。
シュトラールが起居している、堅牢な石造りの城は上から下まで緩やかな螺旋階段が貫いている。上へのぼりつめてゆくと屋上へ出るが、下へゆくと地下階があった。シュトラールの身長に合わせてか、大きな扉で隔てられ、その向こうは広大な空間になっている。
その広間は一面、湯気に満ちて曇っている。
目を落とせば、石に囲まれた巨大な池があった。
ここでは、湯がわき出ているのだ。
まるで温泉だった。
澄白は入り口にとりつけられた台の上に、持参した布を置いた。――この台も、澄白のためにと《隣人》たちが即興で作ってくれたものだった。
布に戯れていた《隣人》たちが、ふよふよと空に浮き上がる。
一応、階段のほうへ顔を向けて、他に誰かが入ってくることがないかを確かめる。
とはいえ、澄白のように温泉としてここを利用する者はいない。竜たちはもっと大きな場所で水浴びをすることがほとんどらしい。このように湯がわく地点はきわめて珍しいことらしい。澄白が利用するまでは、害はないから埋めることはしなかった、というだけでただ放置されていたのだという。
《隣人》たちがつくってくれた衣を丁寧に脱ぎ、たたむと、澄白はかすかに肩を縮めながら小さな布を一枚もって、自然の大浴場へと足を踏み入れた。
石で囲まれた大きな湯船の縁に桶を見つけ、湯を汲んで体を流す。この手頃な桶もまた、《隣人》たちがつくってくれたものだ。この小さな住人たちは、とにかくなんでも作ってしまうらしい。
『すみしろ、あらうー』
『ごしごしー』
「はい、ありがとうございます」
澄白は笑った。隣人たちが髪を洗ってくれる感覚がくすぐったく、嬉しかった。誰かに髪を洗ってもらうことなど、何年ぶりかわからなかった。
切るのも面倒で伸ばし続けた結果、結構な長さになってしまい、一人で洗うのは一苦労になってしまった。
《隣人》たちに髪を洗ってもらっている間、持ち込んだ布で体を洗う。その後、布を洗って絞った。洗ってもらった髪も絞って水気を切り、絞った布で包んで結い上げる。その頭に、《隣人》たちが乗った。
そうしてから、爪先から湯にそっと入る。結構な熱さなのでゆっくりと体を沈めてゆく。座ると、ちょうど首まで湯につかった。
は-、と思わず気の抜けた息が漏れた。体が溶けてしまいそうなほどに心地良かった。
家にいたころ、湯船を張るのは一苦労だった。これほど頻繁に浸かることなどできなかったのだ。こんな贅沢を知ってしまったいま、もうあの頃には戻れないかもしれない、などと思う。
頭に乗っかっていた《隣人》たちが、軽やかに落ちて湯の上をはねた。水を切る小石のように、波紋を描きながら湯の上を跳ねる。
『あつい』
『あついー!』
ぱしゃぱしゃと跳ねる様はまるではしゃぐ子供だった。
澄白は笑ってしまい、すくうように両手を揃えて差し出した。すると《隣人》たちが退避するようにわらわらと集まってくる。
この贅沢な湯浴みだけでなく、《隣人》たちも同伴してくれるということが、澄白には嬉しかった。シュトラールやヘルツではとうてい無理だからだ。
『すみしろ、あそぼう!』
『あそぼう!』
《隣人》たちは明るくそう言って、湯の飛沫を澄白に降らせた。
澄白は笑い声をあげて、両手で湯をすくい、隣人たちに放る。
きゃあ、と子供のように《隣人》たちが笑い、また飛沫をはねあげて応戦する。澄白もすかさず応じて、しばし攻防戦が続いた。
――一方その頃。
『……最近、隣人たちが熱水を使用して澄白と交流を深めているらしい』
『熱水……地下の、あれですか?』
屋上で日光浴をしていた白き竜・シュトラールは、傍らのヘルツに言った。同じく竜体に戻って光を吸収していたヘルツも、不思議そうな顔をする。
『うむ。それはよほど有用な手段なのだろうか。かなりの頻度で用いられている手段であるようなのだが』
『何か、人の慣習の一つなのかもしれませんね。《隣人》たちはなんでも適応しますので』
黄金の《祝い子》はしばし黙考した。いまだ、自分は澄白に緊張を強いているような面がある。それはいまだ友好な関係が確立されていないことの証だ。
ヘルツがかつて言ったように、澄白は自分に対してまだ強ばっている、のだ。ならば――。
『……私も《隣人》たちを見ならってみよう』
《ゴルト》の稀なる《祝い子》は真摯に言った。ヘルツが首を傾げた。
――替えの衣を着ている最中の《花嫁》とその夫が仮の脱衣所で鉢合わせし、花嫁の盛大な悲鳴が響き渡ったのは、それから少ししてのことであった。