研究したい令嬢、結婚したい幼なじみ。
~求婚はポーション一個分よりも重くなってから~

1話

「結婚しようか」

 少し遠出しようか、とでも言うような口調だった。
 イサーラは男を睨んでいたので、その言葉の意味を理解するまで数秒かかった。
 そしてようやく理解したとたん、

「……は?」

 そんな間抜けな声が出た。



 イサーラは今日も壁の花を決め込んでいた。
 むしろ壁の花にならなかったのはいつだっただろうか。社交界にはじめて出て行ったときぐらいかもしれない。
 どうせ今日も、義務で参加しているだけの無為な時間なのだ。

 数が正義だとでもいうように、無数の蝋燭(ろうそく)の火とそれを過剰に飾るガラスからなるシャンデリアが、夜会に集う人々を照らす。
 女性の引き立て役となるかのごとく暗い色の燕尾服に身をまとった紳士たち。
 主役となるべくこれでもかと飾り立てた色鮮やかなドレスをまとう淑女たち。彼女たちは、首回りや胸元ぎりぎりまで露出しながら、長手袋をして扇子を持っている。

(……意味がわからない)

 イサーラは眉をひそめる。
 こういった場における女性陣の恰好というのはどうもおかしい気がする。
 だが自分も同じ恰好をしているのだと気づいて、濡れた布をいやいやつまむようにドレスをつまみ、扇子は不可解な木の棒でもあるかのように思えて白けた目で見た。
 人のことを言える姿ではない。
 長手袋をして腕の大半を隠すぐらいならはじめから長袖を着ればいいし、扇子で口元を隠さねばらないなら、そもそも胸元ぎりぎりまで露出するようなドレスを着なければいいではないか。

 矛盾している。
 意味を見出せない。

 しかもこの色鮮やかなドレスたちといえば、ほとんどがイサーラを拒絶するのだ。
 イサーラは伯爵家の娘だが、この伯爵家は肌が浅黒い家系である。遠い異国の人間がきわめて稀な出世をして爵位をもらったという経緯を持ち、色白の者と結婚しても高確率で肌が褐色系になる。
 むろんイサーラも例外ではない。
 さらに言えば、イサーラの父や祖父ほど彫りが深く眉や髪の色が濃い貴人はこの国にはいない。
 そして祖父に似ているといわれるイサーラの顔立ちもまた、鼻が高く唇がやや厚めで、黒い睫毛はちょっと見ないぐらいに濃く長い。目の周りのくぼみも他よりはっきりしている。
 そのせいか、好意的な人間には神秘的な目とか言われるし、否定的な人間には陰険とか陰鬱だとかいわれるのである。
 色の濃い肌に負けぬぐらい、髪もしっかりとしていて黒々としている。
 イサーラからすれば、他の人間は肌が白すぎ、鼻梁がやや低めであるように思われた。
 だからそんな他の人間に合わせてつくられた色合いのドレスや装飾品は、イサーラの肌や顔立ちにはだいたい合わない。
 自分でも似合わないと思うのだから、他人から見てどうなるかは推してはかるべしである。

 暇のあまり無為な思考を弄んでいると、ふいにひそひそとした声、視線を感じた。
 扇子で半端に顔を隠した淑女たちが集まって、こちらを見て何かを噂している。
 イサーラはうんざりした。
 どうせまた無愛想だとか何をしに来たのかわからないとか、はたまたこの間の破談になった婚約についてどうのこうの、と言われているのであろう。
 すべて事実無根だし見当違いである。
 イサーラは溜息をつく。

(早く帰りたい)

 まったく時間の無駄である。
 自分はこんなところで時間を浪費する暇などないのだ。
 やりたいことがある。
 だが親には最低でも一刻はこの場にいろと言われたから、それは守らねばならない。
 早く時間がすぎればいい――イサーラはそれだけを願い、進みの遅い時間を耐えた。



 退屈で苦痛な夜会をなんとかやり過ごし、迎えた翌朝をイサーラは決して無駄にはしなかった。
 素早く目覚め、最速で身支度を調え、食事を済ませる。
 両親が溜息をついては嘆く、いつもの作業服に着替える。乗馬服をきわめて質素に改造し、その上に汚れてもいいように前掛けを着るという恰好だ。
 メイドというより庭師に近い印象になる。
 黒髪は後ろでざっくりとひとまとめにする。
 そうして、呆れる両親を横目に邸を飛び出し、大きな建物の裏側にある小屋に向かう。
 もとは狩猟番の使っていた古い小屋で、場所を移動・改築することになって取り壊されかけたのだが、イサーラが無理を言ってもらいうけたのである。
 そこはイサーラの、唯一にして最大の研究所(・・・)であり、輝ける人生の目標の第一歩であった。

 木造の小屋の扉には申し訳程度に錠前がついている。
 イサーラはポケットから鍵を取り出して差し込んだ。
 ここは伯爵家の敷地内であるし、この古びた小屋にわざわざ盗みに入るものなどいないのだが――それでも、ここにはイサーラにとってとてつもなく価値あるものが収納されている。

 小屋に足を踏み入れると、見慣れた光景がイサーラを出迎えた。
 まず中央に巨大な作業台。
 左右の壁には棚がもうけてあり、左の棚はフラスコやビーカー、試験管や各種秤などひととおりの道具がそろえてあり、右の棚は上のほうにその|成果(・・)――小さな瓶に詰めた薬物、下段に時折確認する辞典などの書物がある。
 そして真正面の壁には細い机と椅子、それから数冊の本を立ててある。

 イサーラはすたすたと右の棚に近寄っていくと、整列した小瓶たちを眺めた。
 赤、青、緑などさまざまな色の水が静かに湛えられている。
 無知な人間は、絵の具を溶かした水がなぜこんなところに、などというかもしれない。

(……安定している。成功だ)

 イサーラはぐっと拳を握った。
 この色鮮やかな液体たちは、むろん絵の具を溶かした水などではない。

 ――薬水瓶(ポーション)なのである。

 薬効を持つ各種植物の部位あるいは動物の部位などを乾燥させたり混ぜたり煮つめたりして、いくつかの工程の末にできあがる、純粋な薬物なのだ。
 そのまま薬草などを取り入れる場合よりはるかに高い効果を発揮するし、日持ちするし、液体なので摂取しやすく、少量でいいのでこのように瓶詰めにすれば持ち運びも容易である。
 まさしく神秘、いや叡智の賜物である。

 イサーラは成功の高揚感に浸りつつ、奥の机に向かった。
 ペンやインク、ノートがあり――だが机の中央に主役のごとく鎮座する、だいぶ古びた皮の表紙の書物がある。
 イサーラには、その古さは重々しく厳格に見える。
 とほうもない試行錯誤と研鑽(けんさん)高邁(こうまい)な精神の結実。
 輝かしい書。
 ――《聖女アナヴィスの写本》だ。
  イサーラは椅子に腰を下ろすと、その古びた書物に恭しく触れ、ゆっくりと開いた。
 いかにも恰好つけた、優美な筆記体が整然と文字を連ねている。――写本した者の筆跡だ。
 しかしその少々鼻につく筆跡も、内容の素晴らしさを損ねることはできない。
 イサーラは熱心に読む。
《聖女アナヴィスの写本》は、その名の通り、アナヴィスという聖女の残した偉大なる記録の写しだ。
 アナヴィスが何を残したのかと言えば、薬効の認められる植物の覚え書きと、それの活用法、そしてポーションの作り方であった。
 特にポーションの発明は、画期的なことだった。

 アナヴィスの生きていた時代、聖女は奇跡の力を持ち、それによって人々を癒していたという。
 人々が頼るのは奇跡であり、聖女や王室であり、決して現実に存在する薬ではなかった。
 だがアナヴィスはその異能者でありながら、材料と工程さえ守れば、誰にでも癒しの力が再現できるようなものを開発した。
 それがポーションである。
 むろん、いくら画期的な発明といっても、奇跡などといった異能とは比べるべくもないが――イサーラ自身は、異能などというものには懐疑的である――再現可能であり、一定の効果を必ずあげられるという意味で、ポーションはまさしく世紀の発明であった。
 ……にもかかわらず、聖アナヴィスは過小評価されている。

 アナヴィスの残した記録は長く省みられず、どこかの倉庫の埃と時間の底に埋もれていた。その価値が認められるようになってきたのはつい最近のことだ。
 しかも、ようやくその価値に気づいた者たちが独占しようとして不当に秘匿されていた。
 イサーラがアナヴィスの写本を手に入れられたのは様々な偶然が重なった結果の、奇跡のようなものだった。

 イサーラはアナヴィスの伝記を読み、救われた人間である。
 アナヴィスは聖女としては不遇だったという。それでも折れることなく、己の信念のために突き進んでこれほどの偉業をなしとげたのだ。
 それまであること(・・・・)によってひどく悩み、世界と自分に繋がりを見出せず、灰色で不安定な日々を送っていたのが、アナヴィスの伝記を読み、彼女の残した叡智の結晶――その写本に触れることで変わった。

 アナヴィスのようになりたい――アナヴィスが一人でも多くの人に行き渡ることを願ったこのポーションを極め、普及させたい。

 それがイサーラの目的になった。
 この古びた小屋こそ、その第一歩になるのだ。
 写本は通して何度か読んでいる。そこに記されたポーションを一つずつ実際に作って検証するのが、イサーラの日課になっていた。
 ほとんどすべて一人でやっているから進みは遅遅としているが、着実に前進している。
 確かな手応えがイサーラの日々に活力を与え、生きる意味を与えるのである。
 今日も実際にポーション作りに取りかかる前に、しっかりと写本の該当箇所を読み込んで――。

「サーラ」

 やけに甘ったるい声と同時、いきなりずしりと頭に重いものが乗った。
 イサーラは少し慌てて振り向いたが、そこに闖入者(ちんにゅうしゃ)の姿を見て大いに顔をしかめた。
 頭にいきなり乗せられたのは、闖入者の顎であったらしい。

「いきなり何! 邪魔しないで」
「冷たいなー。せっかく会いに来たのに。サラ、ここにこもってるんだって?」

 闖入者――ジュリオはのんびりと言って、珍しげに壁の棚や作業台を見回した。
 イサーラは顔をしかめる。

 銀灰色の髪、肌理(きめ)の整った白い肌、太い眉の下で淡い影をつくる目元、灰色の目。
 イサーラにも劣らぬ高い鼻梁と薄い唇をしたジュリオは、淑女たちの噂の的だ。いわゆる美男、というやつなのである。整った顔にくわえて肩幅もあって背も高い。
 イサーラはときどき、ジュリオは途中で入れ替わってしまったのではないかなどと思う。
 小さい頃の、あの林檎色の頬と赤い唇、小さな肩や華奢な足を持った少年はどこへ行ってしまったのか。
 サラ、と呼ぶ声は愛らしく無垢だったのに、いまではこんなに低くてどこかただれた響きになってしまった。
 こんなに腹が立つほど気障で、大きくて固そうな体になる気配などどこにもなかったのに。

「何の用。見ての通り忙しいんだけど」
「忙しいって……それ、趣味だろ? なんか変な……ええと毒物作り?」
「薬!! ポーション!!」

 イサーラは思い切り顔をしかめて訂正した。
 しかし幼なじみの男は呑気な顔をするだけだった。

「ふーん。まあどっちでもいいや。いや、ちょっとサラに会ってないなと思って来てみた」
「はあ……? それなら事前に連絡してよ。それにええと……ハリエットだっけ。あの女性(ひと)がまた心配するんじゃないの」
「ハリエットとは別れたよ」

 さらりとジュリオは言って、イサーラを驚かせた。