番外編「月日流れど」

※ネタバレを含みます。「月満ちる式使い」読了後に読まれることをおすすめします。※

低い声が自分の名を呼んだとき、輝夜は毛を逆立てた猫さながらにびくりと震えた。
悲鳴が喉まで出かかったが、なんとか抑えた。そろそろと視線を落とし、彼の顔を見て、どきどきと乱れる鼓動の音を聞く。
どうやら起こしてしまったわけではないらしいとわかって、つめていた息を吐いた。
朝になるにはまだ、もう少しだけ時間がかかる。
輝夜は寝入る青年の寝顔をふたたびじっと見つめることにした。眠る青年の枕元で正座し、一人緊張している自分の姿を考えると少しおかしい気もした。だが、こうしてじっと彼の顔を見る機会などなかなかあるものではない。
(……別人みたい)
安らかに閉じられた瞼に、長いまつげが濃く連なっていた。硬質でたくましささえ感じさせる輪郭、深い鼻梁。精悍ささえ漂わせる顔に、幼いあの日の面影はほとんど残っていない。
もともと、整った顔立ちの少年だった。大人びた表情をしていて鋭さも存分にあったものの、子ども特有の細さや少女に似た愛らしさが少しばかり垣間見えたのも事実だ。
だが、けして短くはない時間――彼にとってはそれまで生きてきた時間よりも長い時――が、彼を、慧をひとりの男へと変えてしまった。
繊細さは凛々しさにとってかわられ、愛らしさは艶めかしさに変わってしまった。ひさしぶりに会った慧は余裕に満ちた不敵な笑みを浮かべて、輝夜を翻弄し、振り回した。
もう自分の身体が式神でないことを考慮したとしても、力ではまるでかなわないし、目線は慧のほうがずっと高いし、強く抱きしめられたら――それ以上のことをされたら――抵抗できない。
(う……慧さんのばかばか!)
思い出すなり、輝夜は耳やうなじにいたるまで真っ赤になった。
ひとさし指でぐにぐにと主犯の頬をつつく。
かすかに慧がうめき、眉間が寄せられるのを見てはっと手を引いた。
「ん……」
「!」
ごろり、慧の身体が反転する。輝夜は身動きがとれなかった。正座した膝に、いきなりずっしりとした重みが加わる。
「け……っ!」
重みの正体は、慧の頭。それがいわゆる、膝枕なる状態だと気付いて、輝夜は顔を真っ赤にして声をからまわりさせた。
すぐさまどかそうとして両手を宙に浮かし、止まる。
慧の、健やかな寝息が聞こえたからだ。
(ね、寝ているの……?)
輝夜はぱちぱちと忙しなくまたたき、首から上が茹であがったように感じた。意味もなく左右を見渡し、おろおろと手をさまよわせる。が、救いをさしのべてくれるなにかがあるはずもなく――浮かせた手を、座した足の横にぱたりと落とした。
かすかな寝息をたてる端整な顔をじっと見る。無防備な寝顔を見ていると、どこかあどけなく見えて、幼い頃の慧に一瞬だけ重なった。
おそるおそる、手を伸ばし、指でそっと髪を梳いてみる。さらりとした癖のない髪が指を滑る。
慧が寝ていなければとうてい出来ないようなその行動に、輝夜は少しくすぐったいような、嬉しいような気持ちになった。そのささやかな幸せに一人で浸っていると、
「……くっ」
「!?」
いきなり、慧の唇がつりあがった。こぼれたのは押し殺した笑い声で、輝夜は大きく目を見開き、動きを止めた。
ぱちり、と慧の瞼が持ち上がり、輝夜の顔を見上げる。
「寝込みを襲っておいて、それだけか?」
あどけない寝顔をさらしていたはずの青年は、挑発的に笑った。
輝夜は絶句して、羞恥のあまり目眩を覚えた。――が、膝を堂々と占領したまま不敵に言う青年を慌てて突き飛ばした。ごいん、と形の良い頭が床をうつ音が響く。
「いっ……て、お前な!」
「お、起きていたならなんで言ってくれないんですかっ!!」
ずざざ、と輝夜は座ったまま後退した。
慧は後頭部をさすりながら、上半身を起こす。
「……寝てる男の頬をつつくような変な輩が次になにをしでかすのかといささか気になって」
肩をすくめ、慧は言う。
輝夜は頬をふくらませた。慧の指摘が耳に痛い。恥ずかしいやら、腹立たしいやらでうまい反論が出てこない。が、唯一の反論の糸口を見つけ、勢いに任せて口を開いた。
「ね、寝ぼけた振りして人の膝に……っ」
「いや、あのときは寝てた」
「へ……」
「……なわけないだろ」
「~~っ!!!」
しれっと引っかけられて、輝夜はふたたび言葉を失った。にやにやと笑う慧に何か反撃を加えたいが、思いつかない。
かくなる上は――
「わたし、朝餉をつくりますっ!!」
高らかに宣言し、傲然と立ち上がる。が、膝枕の反動か、立ったそばからすぐによろめいた。
転ぶ、と眼をつむったとたん、ふわりと温かなものに受け止められる。
はたと瞼を持ち上げてそろそろと顔をあげると、笑う慧の顔があった。
不可抗力とはいえ、抱き留められた形になり、間近に見上げた笑顔に動悸が激しくなる。輝夜はわたわたと慧の腕から離れようとした。が、今度は慧のほうから、意志をもって抱きしめてくる。
輝夜は更に熱をのぼらせた。
「け、慧さんっ」
「ん?」
「も、もう大丈夫ですから……っは、離してください!」
「いやだ」
即答されて、追い討ちのように強く抱き寄せてくる。広い胸に頬を寄せる形になって、輝夜はひどく狼狽した。
余裕に満ちた慧の笑い声が聞こえ、それにあわせて胸板がわずかに振動していた。
輝夜はむずがる赤子のように抗ったが、力でかなうはずもない。うう、とうめいて力を抜いた。
ここ数週間の経験からして、抗うだけ途方に終わるということはわかっていたし――不本意ながらも、こうして抱擁されるのはきらいではなかった。
少しはやい鼓動が聞こえる。心地よい慧の体温に包まれ、くらくらした。
――どうしてこんなに、たくましくなってしまったのだろう。
これではまともに顔を合わせることだってむずかしい。
「……輝夜」
低いささやきが耳を浸す。
輝夜はぎゅっと眼を閉じた。本当に――どうして、声までこんなに変わってしまったのだろう。みだりに胸をかきみだされて、くすぐったい。
妙に張り詰めた空気が漂い、輝夜は慧の腕から逃れようとした。だがしっかりと抱きしめられた檻は強固で逃れられそうにない。
「け、慧さ……」
間が持たず、名前を呼ぼうとした声が震えた。
慧の、含み笑いの吐息が首筋にきたとき、輝夜の体にさざ波が起こった。少し黙ってろ、と耳朶に吐息を注がれる。
輝夜は喘ぐ魚のように唇を開閉した。かすかな衣擦れの音がする。
しなやかな動きで獲物をおさえつける、大きな猫。鈍重な自分はあっさりつかまった獲物。
――食べられてしまう。
そんなことが思い浮かんで、混乱した。
が、輝夜は奇跡的に正気を取り戻し、渾身の力で抗った。
「お……腹、すきましたっ!」
「…………」
「お腹すきました! 朝餉の準備をしましょう!!」
ふいに慧の腕が緩み、輝夜はなんとか逃げ出した。じりじりと後ずさりしたところへ、慧が露骨に眉根を寄せた。
「お前なあ……」
「朝です! もう朝ですよ! ご飯です!」
慧の反論を封じようと、輝夜は勢いよくうなずく。
すると、慧はあきらめまじりの溜息を盛大に吐いた。そして立ち上がりつつ、言う。
「まあ、いいけど。じゃあおとなしく待ってろ」
「……て、手伝います……」
輝夜は肩を縮こまらせつつ、上目遣いに慧を見た。
生まれ変わっても自分の料理の腕が改善されることはなかったし、いまや自分より十以上も年上になってしまった慧は、ずっと一人暮らしできたためか料理の腕は相当なものになっていた。
そんな慧に、自分の失敗料理を食べさせるわけにもいかない。
だから、恥を忍んで慧に教わっている。
慧は横目で輝夜に応じた。
「包丁はまだ禁止な」
「……う。はい」
輝夜はこっくりと頭をたてに振った。ぐっと拳を握る。
「わたし、がんばります! 美味しい料理をつくれるようになります!」
「……別に、料理にそんなこだわらなくても――」
「だめですっ!」
勢いよく頭を振ると、慧は少し驚いたような顔になった。
「なんでそんなにこだわる?」
問われて、輝夜ははっとした。ええと、と少し口ごもる。
「わたし、慧さんのご飯がいつも楽しみなんです。当たり前に空腹を感じられることも、慧さんと一緒にご飯を食べられることも、すごく嬉しいんです」
「……」
「それで、あの……自分でつくったとき、慧さんに、本当に美味しいって思ってもらえるようになったら、もっと嬉しいなって」
いまであっても慧は作るなとは言わないし、作ってあきらかに失敗したものでも眉一つ動かさずに食べてはくれるけれど、そればかりでは申し訳なかった。
輝夜はふっと肩を落とした。
「わたし……慧さんの役に立ちたいんです。いまはもう、腕の力もないし、護身術も使えないし……」
記憶を引き継いでも、身体はまったく同じとはいかない。腕力もなければ体力もなく、いまはごくふつうの娘になってしまった。
なのに慧のほうはといえば、もとから持っていた落ち着きや聡明さにくわえ、一人でなんでもこなすようになっていて、都に出れば若い娘を騒がせた。すらりと伸びた背、広い肩、長い手足。涼やかでどこか艶すらある眼。整った鼻梁に薄い唇は気品すら湛えている。
飾り気もなく、女っ気もないというのに、慧に熱い視線を送り、時として言い寄る娘はそう少なくはなかった――と、小夜が耳打ちしてくれた。
輝夜は、胸がざわつくのと同時に、それらの娘たちの気持ちがよくわかった。
以前よりもずっと、慧のことが好きになった。覚えていてくれたことが、待ってくれていたことが嬉しくて、涙が出た。
だが――だというのに、自分はどうなのだろう。
慧はこれからもずっと好きでいてくれるだろうか。
いまの自分には、ろくにとりえがないのに。
輝夜は顔を上げた。
「わ、わたし、慧さんに、わたしが側にいていいな、って少しでも思ってもらいたくて、だから、できることならなんでも――」
「おい」
いきなり、不機嫌きわまりない声にさえぎられた。輝夜は眼を丸くし、言葉につまった。
「あんた、いままで俺の言葉を聞いてなかったのか」
雷雲のごとき低い声に、輝夜はすくんだ。慧の眉間に幾重もの皺が刻まれ、視線は焔を孕んでいる。
輝夜はようやくのことで、ふるふると頭を振った。
「聞いて、ました……」
「じゃあ、なんて言った」
間髪入れずに問われ、輝夜はたじろいだ。だが、自分の何かが慧を怒らせてしまったのだと悟って、焦燥と泣きたい気持ちとが交差する。喉がつまって、言葉が出てこない。
「……本当に、間抜けだな」
一転した柔らかい声が、溜息まじりに聞こえた。輝夜が驚いて顔をあげると、右頬に慧の手が触れた。
怒りは既に消え、切望を宿した眼が、輝夜を見つめた。
「俺は、あんたがこうして側にいてくれるだけでいい。十五年も待ったんだ。いまさら、役に立つ立たないだとか、料理が下手だとかを問題にするか」
「でも……!」
「じゃあ聞くが、あんたは俺が料理できなくて、式使いでもなくなってたら、気持ちが変わったか?」
輝夜は大きく眼を見開き、激しく頭を振った。
「前の慧さんもいまの慧さんも好きです!!」
「……だろ。俺も同じだってどうしてわからない?」
諭すように優しい声で言われて、輝夜はあっと短く声を発した。薄く開いた唇を閉ざすことができなかったのは、慧が、やわらかい微笑を浮かべていたからだ。
「もっとも、十五年分、俺はあんたよりしつこく想ってるんだけどな」
その声が胸の奥深いところにひどく染みて、輝夜はうつむいた。顔が熱かった。
十五年も待ってくれていた慧を、その想いを疑うなんて、なんてばかなことをしたのだろう。
「ごめんなさい……」
「あんたは変なところ心配しすぎなんだよ。余計なこと考えるな」
「……はい」
輝夜は眼を閉じて、頬に触れる慧の手に自分の手を重ねた。閉じた眼の奥が熱かった。幸せで、このまま溶けてしまいそうだった。
自分が感じるこの幸せを、慧も感じてくれていたらいい。そのために、自分にできることならなんでもしたい――。
「……ただ、あんたが何かしたいと思うなら」
ふっと気配が近づき、輝夜は耳元に吐息を感じてぱちりと眼を開けた。狼狽えているところに、笑みを含んだ声がした。
「早く大人になってくれ」
「な、っ……!? も、もう大人です!!」
「へえ、本当に?」
「そうです!! もう大人です!!」
子ども扱いされるのがいやで、思わずそう返してしまった輝夜は、慧の表情を近くでとらえて声を失った。
「……ふうん?」
輝夜の本能が、警鐘を鳴らした。こういう、意地の悪い、そのくせしてどこか色気のある笑みを見せられたとき、だいたいろくなことにならない。
「あ、あの……」
じりじりと、後退する。何か、とてつもない失態を犯した気がする。
慧が、不気味なほどにこやかに、ゆっくりと、確実に追ってくる。その様は、獲物を狙い定め、いまにもとびかからんとするしなやかな獣の姿を思わせた。

「――逃げるなよ?」

輝夜は、全力でその言葉に抗わなくてはならなかった。