番外編2

こん。
咳をすると本当にそんな音が出て、深緋は思わず苦笑いしてしまった。それでまたむせてしまい、咳をする。横たわったまましばらく目を閉じ、呼吸を均すことに専念した。
(迂闊だわ……)
長い黒髪が褥に散らばり、彼女の細い身体は数日前からずっとここを離れられないでいた。ひどく静かだった。この大きな長屋には、自分と娘以外の者はいない。やってくるものといえば時々物資を届けに来るものと、娘の友人ぐらいだ。
自分がこうして風邪などひいて倒れてしまうと、家の中が立ちゆかなくなってしまう。深緋の自慢の娘は、まだ八歳だ。
と、ぱたぱたと廊下を走ってくる足音がした。その音を聞いただけで、深緋の心は軽くなる。そうっと障子を開け、小さな隙間からのぞいてくる顔は、ずいぶんと低い位置にあり、母親と同じ石榴の色をした大きな瞳が見つめている。深緋は身体を起こし、娘に微笑みかけた。
「起きているわ、澄白」
娘はぱっと顔を明るくし、部屋に入ってきた。褥の横に正座し、心配そうに見上げてくる。
「かあさま、くるしいの? まだ、熱がさがらない?」
「もう、苦しくないわ。熱もさがったから」
「ほんと?」
「ほんとよ」
深緋はくすくすと笑った。だが娘――澄白は何か感じるところがあったのか、身を乗り出して小さな手で深緋の額に触れた。
「あつい」
「そう?」
「寝なきゃだめっ!」
深緋は笑いながら、無理に寝かしつけようとする娘に大人しくしたがった。娘の掌から香る独特の青いにおいに気づく。
「澄白、消炎草をつかったの?」
「うん」
「えらいわ。ちゃんと、お勉強をしていたのね」
深緋は薬師であり、娘にも薬学を教えている。怪我や病気をしたとき、自分で対処できるようにと一通りの基礎だけを教え込むつもりでいたのだが――。
「おかあさま、消炎草って日陰草に似ているのね。なかよしかと思ってちょうごうしてみたら、きれいな黄色になったの。これって、熱にきく? 黄色は、熱をとるさようがあるんでしょう?」
彼女はびっくりした。調合の組み合わせについては基礎しか教えていない。だが、この娘はもう、一人でに歩き始めてしまっているらしい。
深緋は嬉しくなった。
「ええ、そうよ。よくできました」
頭を撫でると、澄白は嬉しそうに笑った。
――娘は思わぬ《才能》を発揮して、水を吸いこむように教えたことを吸収していく。それに驚くと同時に歓喜して、彼女はもてるすべてをこの娘につぎこむことを決めていた。
(私の、宝物)
かつては自分が母親になるなどとは思ってもいなかったし、娘という生き物がこんなに愛しく感じられるものだと知らなかった。
澄白の実父であり、自分の夫――この山城の国主は、優しいけれど弱い人だった。
いっときの恋の情熱で側室にぜひと強く望まれ、そのときばかりは国主は周りの反対を押し切って彼女を迎え、澄白を生ませたが、生まれた娘が母譲りの紅い目をしているとわかると、再び強くなった周囲の反発に耐えきれず――娘ともども、人里離れたこの長屋に住まいを与えて隔離した。
深緋は、それを恨まなかった。国主の側室となったのは、彼に強く望まれ、またその優しい性格を知ってもいたので、他の男よりはましだろうと諦めにも似た思いがあったからだ。
一時でも国主が愛してくれたようには、深緋は彼を愛せなかった。あの閉ざされた場所――故郷を飛び出し、舟に揺られてこの山城に迷い込んだときには恋愛にも異性にもなんの希望も期待も持てなくなっていた。
子供が宿ったとき、不安がなかったといえば嘘になる。むしろその逆で、自分がなにか別の生き物になっていくようでおそろしかった。
だが実際に娘が生まれてしまうと、自分でもびっくりするぐらい愛しかった。
産声を聞いたとき。小さく赤い顔をくしゃくしゃにして泣いている生き物を見たとき、涙が溢れて止まらなかった。
長ずるにつれはっきりとあらわれる、自分と同じ真っ黒でさらさらの髪。この地に元から住まうものたちよりもずっと白い肌。目の色も、この山城の国ではたった二人だけの、紅の色。異物を拒むこの山城の中にあって、娘だけが自分の家族だという思いもあったのかもしれない。
だが、自分を母と慕い、無心に求めてくる小さい生き物が可愛くて仕方なかった。
不思議と静かな気持ちで、この小さな娘にすべてを注いで育て上げようと思った。
深緋は、娘の頭を何度か優しく撫でる。澄白は嬉しそうに笑っていたが、やがてその表情が歪み、うつむいてしまった。
「澄白?」
彼女は身体を起こした。母親という生き物の本能だろうか、ひどく不安をかきたてられる。
「どうしたの、澄白」
小さな頭がふるふると横に振られる。なんでもない、という意思表示。
――娘は、最近こんな意思表示をするようになった。
なんでもない、という意思表示。かつては、こんな動作はしなかった。なんでも話してくれた。
深緋は、娘の白く小さな頬を両手で包んで顔をあげさせた。見ると、娘の紅い瞳は潤んでいた。
自分がぶたれたような痛みを感じ、自分も一瞬顔を歪めてしまった。
「……外へ、出たのね?」
大きな瞳に見る見るうちに雫がたまり、澄白はこくりとうなずく。大粒の涙がこぼれて、丸い頬を伝った。
深緋は小さな身体を抱き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。
ぽんぽんと背中をたたいて、なにがあったの、と聞くと、澄白は袖にしがみついて声を押し殺しながら泣き始めた。ひとしきりそうしたあと、ぽつりぽつりと話し始める。
「や、薬、草を……とりに、いったの……っ、そ、したら、途中で、むこうの子たちに、あって……」
石を投げられたのだ、と嗚咽まじりの声が言った。
――《忌み姫》だ! 気持ち悪い!
――こっちへ来るな、よそ者め!
人里の子供達の、無知で残酷な声が聞こえるような気がして深緋は顔を歪めた。
右腕に娘を抱いたまま、左手で頭を撫でる。ずっと堪えていたのだろう、小さな娘はしがみついて泣きはじめた。
胸が押し潰されそうに痛かった。一人で外へ行かせるのではなかった、と苦い後悔が広がる。
(……この子に、なんの罪があるというの)
ただ、自分と同じ紅い目をしているというだけで。山城の民とは違う目の色だからというだけで。流血沙汰を招く血色の目だの、災いを招くだのと言われ――。
悔しさに深緋は歯がみする。。
自分だけならまだいい。奇異の目で見られるのは慣れている。だが澄白は何も知らない無垢な子供で、しかも国主の末娘でもあるのだ。贅沢や地位を望んでいるわけではない、だがこんなに蔑ろにされていいはずがない。傷ついた小鳥を両手で拾い上げて泣きながらもってくるような、寝込んだ母の看病をし、そのことに文句の一つもいわないような心の優しい娘なのに。
深緋は、娘が泣き止むまでずっと背中をさすっていた。しゃくりあげながら、澄白は顔を上げる。
「となりで、ねてもいい?」
「……いいわ。枕を持ってきなさい」
澄白はほんの少しだけ表情を明るくして、小走りに部屋を出て行った。
深緋は右手で両目を覆う。
――どうしたらいいのだろう。
いまは、自分がいるからまだいい。だがもし、自分がいなくなってしまったら。娘は、澄白はどうするのだろう。
恥をしのんで、実父である国主に何度か、澄白だけでもそちらに引き取ってもらえないか、後見になってもらえないかと打診した。だがそのたび、申し訳なさそうにしながら――国主は否定を返してきている。
ただ生きていくだけなら、可能かもしれない。だが娘がたった一人で、誰からも省みられず、蔑まれ、腐って朽ちてゆくだけなどあまりにも哀れだ。
澄白はたぐいまれなる宝石。
それを、こんなところで磨りつぶしていいわけがない。
寝具の端を握る手に力がこもる。震える息が、血色の悪い唇からこぼれた。

「鈴! だめっ!」
明るい橙色と白の縞模様をした大きな猫が、太い尻尾を揺らして走る。台所から逃げていく。幼い我が子がその後を追っていくのを、深緋は食卓で湯飲みを手にしながら微笑ましく見守った。廊下から、ばたばたと足音が聞こえる。
縞模様の大きな猫は鈴といい、三年前に澄白が拾ってきた猫だった。鈴みたいな声で鳴くから、という理由で澄白が名付けた。当初は掌に乗ってしまうぐらいに小さくやせ細った仔猫であったのに、いまはすっかり育って肥満気味になり、澄白の枕になってしまえるほどだ。
鈴は、澄白のよき遊び相手でもあった。悪戯をしばしばするものの、おおむね気性が優しくのんびりしており、澄白が抱きついたり、ふわふわした毛に顔を埋めたりしても好きなようにさせている。
鈴もまた、小さな主が落ち込んでいるときは、抱きつけとばかりに自分からすり寄るのだ。
深緋にとっても、鈴はよき家族だった。
ふいに咳が出て、とっさに湯飲みを卓の上に置いて口元を手で覆った。いやな空咳だった。
(……しつこい風邪)
呼吸を均しながら、深緋は溜息をつく。もともと、身体があまり丈夫なほうではない。病気を治すには人一倍時間がかかるほうなので、なるべく気をつけてはいたのだが、最近、年を重ねたせいかますます体力が落ちてきた気がする。
――しっかりしなければ。
湯飲みに残った茶の水面が、気鬱そうな女の顔を映しては波紋で乱す。
深緋は頭を振る。空気が澱んでいるような気がして、立ちあがって障子を開けた。
新鮮な空気。ひんやりとした風が頬に心地よかった。縁側に座り、何気なく空を見上げる。
とたた、と軽い足音が戻ってきた。澄白はちょこんと隣に座り、不安げに深緋の顔を見上げた。
「かあさま、からだがひえちゃう」
「だいじょうぶ。少しだけよ。外の空気も身体には必要だから。……おいで澄白」
澄白を招き寄せ、背中から抱きかかえるようにし、両膝の上に座らせる。確かに成長していることを感じさせる重みに、深緋は笑みがこぼれた。
「大きくなったねえ」
「うん」
澄白がころころと笑い、ぎゅっと抱きついてきた。
にぁ、と甘える声を出し、猫の鈴までもがすり寄って身体をこすりつけてくる。二人と一匹で、何とはなしに空を見上げた。
深緋の目には菱形の鳥影が見てとれた。おそらくは《御使い》だろう。
「あ! かみさまがいる!」
見て、と小さな指先が空を指した。
深緋が顔をあげてその先を見ると、左手のほうに、水色の空の中、尾をひく白い筋があった。雲ではない。《御遣い》にしては、位置が高すぎる。深緋は目を細めた。
「ああ、本当ね」
この山城において、《神》と呼ばれるもの。
――《竜》。
澄白を抱え、前で組んだ両手に、力をこめる。
――《竜》がどんな姿をしているのか、深緋はよく知らない。そもそもその存在が実在のものなのかどうかさえ疑っているのだ。
だがこの地に来たとき、山城に少なからず影響を与えている――ほとんど常識化しているおとぎ話を、体系立てて学んでみた。現地の人々に溶け込もうと努力したものの一つだ。伝承では少しだけ、《竜》の姿らしき描写が出てくるが、人から人へと伝わったものなので定かではない。この《山城》では文字の読み書きが出来る人間はごく一握りで、文書などは国主が一括して管理している。その文書もほとんど死蔵されており、かえりみるものはいない。
少ない情報を統合したうえで、ごくまれに見る流星のような白い軌跡――あれがどうやらこの山城で《竜》の痕跡とされているらしい、と深緋は結論した。
たまたま、雲がそんな形をしていたということがほとんどだろう。深緋はそう思っていたが、それだけでは説明のつかぬものも何度か見かけたので――たとえばいまのような――少し、信じる気になった。
だからといって、その超常的な存在が何かをしてくれるわけでもない。いることにはいるが、それがなんだ、という冷めた気持ちもあった。
せいぜい、気休め程度のものにしかならない。
そんな風に思ってしまうから、やはり自分は《外》の人間なのかもしれなかった。
薬師という身分もあって、深緋は現実ばかりを強く見てしまう。祈りや願いだけでは、怪我や病気が治ることなどないからだ。
しかし自分とは違い、この山城で生まれ、おそらくはこれから先もここで生きていかねばならないであろう澄白には大事な《常識》だ。――少しでも、周りとの差異をなくすための。
深緋が《竜》について教えると、幼子の無邪気さで、澄白はすんなりと信じた。しばしば空を見上げては、《竜》の姿を探すようにまでなった。
「きらきらしてる。お星さまみたい」
澄白は身を乗り出すようにして空を見上げ、両手を伸ばした。その声も弾んでいる。ただの光点としか見えないだろうに、よほど面白いのか、伸ばした両手で光をつかもうとする。
深緋は笑い、きらきらねえ、と答えた。そんな母の反応が嬉しかったのか、澄白はまたきらきらねえ、と声真似をするように言った。
二人して笑いあい、きらきらねえ、とだけ繰り返して、しばらく空を見つめていた。


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